ねんざかしら、骨折かしら

1975年 階段で転び骨折

 1975年3月に左脚の骨折をしました。

 週刊誌の記事などによると、経過は以下の通り。

 テレサ・テンは、パスポートの更新やお正月休暇のため1975年2月9日から台湾に里帰りしていました。

 台湾国籍のテレサは、6カ月にいっぺん帰国して4週間以上滞在しないと、日本で歌手活動の仕事をすることができない。今度の期限切れは3月初めだったが台湾で家族とお正月(日本の2月12日が元旦になる)を過ごすため、2月9日から向こうへ帰っていた。 

 その後、日本に来る際、3月13日に台北の空港内の階段で足をひねり転んだ。空港内の診療所で応急処置をしてもらい、痛みをこらえながら来日。

 当日は痛みをこらえながら、牛のしゃぶしゃぶを食べたらしい。

 翌日14日、日比谷病院で受診をしたところ、「左足首骨折、全治4週間」の診断を受けました。

 当日はオフだったが、翌15日にはフジテレビ「歌のスターパレード」の収録があり、松葉杖・ギプスの状態でテレビ局へ行きました。

 収録の際には、司会の月の家円鏡の肩を借りてカメラの前に進み、「女の生きがい」を歌いました。

 14日はオフだったが、15日にはフジテレビ「スターパレード」が入っていた。普通ならわけを話しておりるのだが、負けん気のテレサは松葉杖でテレビ局へ行った。共演の森進一や郷ひろみはびっくりで、「テレサちゃん、いったいどうしたの!」とハラハラしたが、 「わたし大丈夫、やるよ。ファンの人たち、待っててくれたもんね」  司会の円鏡が冗談に「そうだ その意気。歌はアシで歌うもんじゃないもん」とあおると、テレサは××(unreadable) 脚本をとって、顔をしかめながら靴をはき、円鏡の肩にすがって、カメラの前へやっと歩いて行く。「歌はアシで歌うもんじゃないよ!」と、歯を食いしばってとうとうがんばりぬいた。  この根性にはみんな感心。フリをつけるのはもちろん無理だが、新曲「女の生きがい」(3月21日発売)を見事に歌って、「さすがはテレサちゃん!」とさかんな拍手を浴びた。

ふくよかな面立ちに相応しく、性格もおっとりしていて何時会っても率直な口調に好感が持てた。ビザの書替えで、半年毎に日本と台湾を往復していたが、2年目の来日時には松葉杖をついて現れてビックリ。台北空港の階段で2階から転げ落ちて足を骨折したという。「早く日本に来たかったから、あわてたの」と、そんなジョーク本音に聞こえたもの。「子供の頃にもよく転んで、10針も縫った」と髪をかき分けて見せてくれた。確かに側頭部にハッキリと手術跡が残っていて、活発な少女時代がうかがえた。 

「ヤング 懐かしの編集後記」(湯浅敏弘氏)より

1976年? スケート場で滑って骨折

 デビュー間もない頃。
 シンガポールでの仕事中、スケート場での公演で 滑って転んで、脚の骨を折ったことがあった。 ギプスをしてそのまま来日して、我慢して仕事をした。 テレサは仕事中は弱音を吐かない。
 その夜、あまりの痛さに、テレサは母に弱音を吐いた。
 「もう疲れちゃった。仕事はもういいよ。 台湾に帰りたいよ」と、泣きじゃくった。
 母は、「帰ってもいいよ。 無理しないで。明日帰りましょう」と慰めた。
 テレサは泣くのをやめ「わかった」と言って、 その日は床についた。
 次の日の朝、起きてきたテレサは毅然として 「お母さん、やっぱりまた頑張ります」と宣言した。
 この母にして、この娘。
 お互いに心から話すことで、物事を前進させる。
 テレサは確かに頑張り屋だった。

「テレサ・テン メモリアルDVD BOOK」(宝島社)より

 この写真に添えられたキャプション「1976/因先前在新加坡溜冰摔斷腿,但他仍忍痛赴日,和寶麗多唱片公司簽約。」は「1976年/シンガポールでスケートで足を骨折した後、ポリドール・レコードと契約するために来日。」の意味です。(DeepL)

 1975年2月に左脚首の骨折をしているのは間違いありません。

 「テレサ・テン メモリアルDVD BOOK」の記事に添えられた写真には、「1975年 雪に滑って足を怪我した夜」とあります。「(スケート場で)滑って」ではありません。この「雪に滑って」の怪我については、この写真のキャプション以外、情報はありません。「氷(=スケート場)に滑って」の間違いかも知れません。

 松葉杖の写真のキャプションには「1986年にシンガポールのスケート(場)で骨折」とあります。「DVD BOOK」の記事の「デビュー間もない頃。」が1976年だとすれば、このキャプションと矛盾がありません。

1970,Trivia

Posted by diva-teresa