日本国内・ファーストコンサート(1977年)新橋・ヤクルトホール
「ファースト・コンサート」のレポート(1)
渡辺プロ発行の「会報ヤング」1977年6月号(No.162)に、「ファースト・コンサート」のレポートが掲載されました。
クローズアップ
テレサ演歌がますます人気を集めてきている。それを実証したのが『ファースト・コン
サート』であり、今後を占うキーにもなる。
テレサ・テンには躍進のチャンス到来だ。
日本人が忘れかけている郷愁を巧みに歌うテレサテンの演歌
特別寄稿 本橋英二(音楽評論家 )
歌唱力を再認識した
初めてのコンサート
涙でマツ毛が濡れた……などはまだ序の口だった。うれし涙で、とうとう、マスカラもとれてしまった。フィナーレのテレサ・テンのステージだ。
その夜、正確には、昭和五十二年四月二十二日。東京・新橋のヤクルト・ホールは超満員の聴衆で、立ち見客まで出る始末だった。
なにしろ、テレサ・テンの初めてのコンサートである。ドッとファンが押しかけたのも無理はない。
『愛をあなたに・ふるさとはどこですか』というタイトルでのコンサートだけに、ヤングも、大人も、先を争って、駆けつけたようだ。男女半々の顔触れ。
テレサ・テンが“特別町民”になっている福島県三島町の人たちもバスを借り切って乗り込んできたほどだ。
人気の根強さを物語る一面でもある。客席の熱気をテレサ・テンが感じないわけがない。オープニングは少々アガリ気味で。
「足もガタガタしているの」
といいながらも、徐々に、調子を上げていく。さすがの歌唱力である。
好評の新曲『ふるさとはどこですか』からはじまり、『空港』などオリジナル・ヒットをうたったあと、歌で、聴衆たちのふるさとめぐり。
『長崎は今日も雨だった』『女一人』『襟裳岬』『花笠音頭』『旅姿三人男』などムード歌謡から民謡、さらにはフォーク、演歌と多彩なレパートリー。
ナマのステージに、あまり接したことのない聴衆は、びっくりして、あらためて、テレサ・テンの歌唱力を再認識する。客席のあちらこちらから、
「うまいねえ」「素晴しい」
驚嘆の声が沸き起る。
テレサ・テンには、ポリドールレコードから出したオリジナル・アルバム『ふるさとはどこですか』がある。
ファンならば、このアルバムを聴いて、惚れぼれするはず。これほど、見事に演歌をうたう若い歌手も少い。しかも、日本人以上に日本の歌心をにじませて……
一時期、我が国の歌謡界には、東南アジアからの歌手がしきりと目立ち、ブームのようになったこともある。
だが、結局残っているのは、テレサ・テンであり、学業復帰したけれど、今も人気のアグネス・チャンぐらいか?
それほどテレサ・テンの場合は、日本に密着しているともいえそうなのだ。もちろん本人自身もおおいに努力している
その努力の一端を、このコンサートでも披露した。島倉千代子の物真似で『からたち日記』をうたったとき、客席は、拍手の渦が巻き、さらに『岸壁の母』で舌を巻いたのだ。
いつもレコードやテレビでしか、テレサテンを見たり、聴いたりしているだけでは真価を見失ってしまうだろう。こういった説得力までステージから発電し、発光するのだから……。
しかも、サービス精神も忘れていない。『ダイアナ』から『オーキャロル』『カラーに口紅』などの“ナツメロ・ポップス”をうたったときは、本邦初披露! のミニ・ドレスまで客席をたんのうさせたものだ。
だが、見事な脚線美を引き立たせるつもりなのか、テレサ・テンのバックで踊る四人のダンサーがひどかった。
女子プロレスまがいのボリュームのあるダンサーを起用したのはなぜか? 場内の失笑を買うほどだった。熱唱するテレサ・テンに対して、デメリットになるはずだ。
そういった雰囲気をガラリとかえたのが、チャイナ・ドレスに着替えてからテレサ・テンの日本語と中国語で歌った『港町ブルース』であり、中国語の『香港の夜』『何日君再来』で、熱唱の連続でフィナーレへともりあがっていた。約三十曲をうたった。
『ファースト・コンサート』は盛況裡の大成功――。幅広く、彼女の魅力を認識させたともいえる。
ただ気になる面もあった。司会者の人選である。今回のファースト・コンサートでは司会者を採点するのは酷かもしれない。だが、第一回目だから、なおさらだといった声もある。同感だ。第一印象は大切だから……。
あえていうならば、あまりにも司会者がでしゃばりすぎるのだ。司会はひかえめに、テレサ・テンの魅力を最大限に出す工夫が必要なのにともすれば、自分を前面に出してくる。
テレサ演歌の雰囲気を客席に浸透させ、じっくりと聴かせる仕掛けをしなくてはいけない。それが司会者の役目でもある。
このあたりも反省して、二回目のコンサートを秋に催してもらいたいものだ。この秋にはテレサが
各歌謡ショーの対象に!?ところで、秋といえば、例年のことながら“歌謡ショーレース”の開幕となる。テレサ・テンが出場しなくては、おかしいのではないかといった下馬評も出てきた。
渡辺プロ発行会報「ヤング」1977年6月号(No.162)
大賛成である。彼女ほどの歌唱力があれば当然だ。テレサ演歌という独特の世界を造りつつあるだけになおさらで、『ふるさとはどこですか』の出足も好調。
これをスプリング・ボードとして、さらに大きく成長させるように努力するのが、彼女の周りにいるスタッフの使命だともいえそうだ。
日本人が忘れかけている郷愁を巧みにうたう点でも抜群の歌唱力を持った証拠だ。しっとりとした情感も出せる。ていねいにうたって、聴くものの心の琴線に触れてくる。
こういった独特のテレサ演歌を極端に変えてしまうのは危険ではなかろうか。素直に心にしみる歌をうたわせてこそ、日本レコード大賞候補、あるいは歌唱賞候補にランクされてくるはず。
テレサ・テンは一歩一歩着実に歌の境地を広げてきている。早々、歌唱力を身につけてファンを吸収しひたすらうたう。これは大変な精進のたまものだ。
もちろん、うちに秘めたファイトもある。でなければ、今日のテレサ・テンはない。彼女が第16回日本レコード大賞新人賞を手中にしたのは昭和四十九年だった。
この時、同じように栄冠を得たのは、浅野ゆう子、荒川務、城みちる、西川峰子、麻生よう子(最優秀新人賞)たちだ。その新人賞歌手たちとテレサ・テンを比較してみることはさけよう。その人気度、歌唱力、いまさら……である。テレサ・テンの今後は、大いに期待できる。頑張って年末へ突き進もう――。
写真のキャプション
(右ページ)テレサ・テンはこのコンサートでは初めてのミニ・ドレスも披露
(左ページ)日本人以上に日本歌心をうたい上げるテレサ・テン。