「若者は、映像の中のテレサ・テンのB面に恋をする」

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若い世代の間でテレサ・テンの人気が再燃。若者は、映像の中のテレサ・テンのB面に恋をする

27年前に亡くなったテレサ・テンの人気が若い世代の間で再燃している。豊富な映像資料が残され、ネットで手軽にアクセスできるようになった結果、テレサ・テンの素顔に恋をする若者が増えていると捜狐が報じた。

中華圏の偉大な歌手、テレサ・テン

アジアの歌姫として偉大な存在の鄧麗君(ダン・リージュン)。日本でもテレサ・テンという名前で「空港」「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」などのヒット曲がある。

しかし、彼女の偉業は1982年に発表した「淡淡幽情」というアルバムだ。宋の時代の宋詩に曲をつけた12曲が収められている。中国の伝統文化と現代文化の融合であり、香港宝麗金レコードから販売をされ、500万枚を売り上げ、華人歌手のレコード販売記録を塗り替えた。「但願人長久」という名曲もここから生まれた。テレサ・テンは、この時、中華圏の歌手の頂点に立った。

当時は、「昼は老鄧(鄧小平)に耳を傾け、夜は小鄧(テレサ・テン)に耳を傾ける」という言葉も生まれたほどだ。

▲デビューしたばかりのテレサ・テン。後に宋詩に曲をつけたアルバム「淡淡幽情」を発表し、偉大なアーティストとして認められるようになった。

ビリビリがきっかけでテレサ・テン人気が再燃

しかし、テレサ・テンが突然この世を去ってからもう27年になる。今の若者はリアルタイムではテレサ・テンを知らないはずなのだが、動画共有サービス「ビリビリ」に「うちのお父さんがテレサ・テンに夢中になっていた理由がようやくわかった」という動画が投稿されると、これが人気となり、920万回も再生されるという事態になり、にわかに若い世代でテレサ・テンの人気が高まっている。いったい、若者たちはテレサ・テンのどこに惹かれているのか。


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▲ビリビリで920万回再生された「うちのお父さんがテレサ・テンに夢中になっていた理由がようやくわかった」動画。テレサ・テンのB面が集められている。

素顔は身近なアイドル、テレサ・テンのB面

若者たちにとって、テレサ・テンは、もはや雲の上の存在だ。アジアの歌姫として偉大な存在であり、近寄りがたい存在だと思われていた。しかし、この「うちのお父さんがテレサ・テンに夢中になっていた理由がようやくわかった」を見ると、若者たちがテレサ・テンのどこに惹かれているのかがよくわかる。

それは「テレサ・テンのB面」とも呼ばれ、イメージとは異なる、意外なほど明るくひょうきんな姿が人気の理由になっている。

ルックスも、イメージの中では美しさの象徴のような人になっているが、素顔のテレサ・テンはおしゃべり好きで表情が多彩で、「標準初恋顔」と呼ばれるようになっている。つまり、偉大な存在だと思っていたら、意外にも親しみやすいキャラで、アイドルを好きになるのと同じ目線で好きになってしまう若者が増えているのだ。

SNS「微博」(ウェイボー)でも、「#テレサ・テンがこんなにひょうきんだとは思わなかった」というハッシュタグが登場している。

▲子どもたちと自転車に乗るテレサ・テン。このような自然な姿が、現代の若者の心をとらえている。

阿里山の娘より美しいテレサ・テン

たとえば、ヒット曲「高山青」には、「阿里山の娘は水のように美しく、阿里山の少年は山のように強い」という歌詞があるが、あるライブで、テレサ・テンはこの歌詞をアドリブで変えてしまい、「阿里山には美しい娘はなく、私テレサ・テンだけが美しい」と歌ってしまう。そして、いたずらっぽく笑い、聴衆はその可愛さに惹かれてしまう。

▲ヒット曲「高山青」の歌詞をアドリブで変え、「美しいのは私だけ」と歌い、自慢げな笑顔を見せた。

自分で歌ってみて!

ある番組では、歌を歌い終わった後に、「この歌を聴いて、私がうまいと思ったら、もっと拍手をお願いします。うまくないと思ったら…自分でここにあがって歌ってみて!」と言う。それがまったく嫌味のない表情で、聴衆は一瞬静まり、それから笑いが起き、拍手が沸き起こった。

▲「私の歌が下手だと思ったら…自分でここにあがって歌ってみて!」。聴衆はその冗談に拍手を贈った。

お嫁に行けない自虐ギャグ

このような冗談が大好きなテレサ・テンは、凄みのある冗談もたくさん行っている。ある曲をアカペラで歌い、「17、8歳でまだ嫁にも行っていない」という歌詞につきあたると、突然歌うのを止めて、「ここは変えなきゃいけませんね」と言い、「30数歳になっても嫁に行っていない」と、自分のことに置き換えて歌い直し、苦笑しながら手で顔を覆った。

これはテレサ・テンのことを知っていたら、凄みのある冗談であることがわかる。なぜなら、テレサ・テン恋多き女性ながら、一人の女性としては一度も幸せになったことがなかったからだ。

▲歌詞をアドリブで変え、「30歳になってもお嫁にいけない」に変え、恥ずかしそうに顔を覆った。しかし、そのジョークの背後にはつらい別れがあった。

最初の恋の相手は、マレーシアの富豪

10歳でラジオのコンテンストで優勝をし、天才少女として注目されたテレサ・テンは14歳の時にプロ歌手としてデビューをする。18歳で香港でレコードデビューをすると一気に人気歌手となった。

その頃、マレーシアのメイフラワーホテルで連続公演を行った。すると、前列から3列目までの観客が熱狂的に応援をしてくれる。翌日の公演のステージに立ってみると、前3列の観客はほぼ同じ人で、熱烈応援をしてくれる。3日目も同じ人たちがいて応援してくれる。マネージャーにどういう人たちなのか調べてもらうと、マレーシアの製紙業の経営者の林振発という人で、テレサ・テンの熱狂的なファンで、45回分の公演の前3列の席をすべて買ってくれていたのだ。

テレサ・テンは、母親とともに、林振発に会い、お礼を言った。すると、林振発はテレサ・テンを食事に誘ってきた。こうして、テレサ・テンの初めての恋が始まった。

テレサ・テンの初恋の相手は、マレーシアの若き富豪。しかし、死別をするという悲劇が待っていた。

涙を浮かべて歌うグッドバイ・マイ・ラブ

1974年、21歳の時に、テレサ・テンは日本の音楽プロデューサー舟木稔の勧めにより、日本での歌手活動を始めるため、日本に渡った。テレサ・テンは林振発と結婚するつもりになっていたが、この歌手活動をするために、結婚の時期を先延ばしにしてもらうことにした。

しかし、1978年、テレサ・テンが久々に台湾市高雄市に戻って公演をしている間に、林振発が心臓発作で倒れたという電報を受け取り、すぐにクアラルンプールに飛んだが、飛行機の中で「林振発が30歳で亡くなった」というニュースを見ることになった。

テレサ・テンはそれまでラブソングを歌うことを避けてきた。「恋愛経験のない自分には歌えない」という理由からだった。それが林振発との恋愛で、ラブソングが歌える大人の歌手に成長をした。

日本でのデビューアルバム「空港/雪化粧」の中に、アン・ルイスのカバー曲「グッドバイ・マイ・ラブ」が収録されている。この曲は後に中国語歌詞もつけられて「再見、我的愛人」としてよく知られている。テレサ・テンはこの曲を歌うたびに瞳に涙を浮かべる。テレサ・テンの初恋を知っている人たちも、一緒に涙を流す。皮肉なことに、テレサ・テンを代表する曲のひとつになった。

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▲恋を知らないのでラブソングは歌えないと言っていたテレサ・テンが、恋を知って歌ったグッドバイ・マイ・ラブ。何かを思い出し、涙が流れた。テレサ・テンは不幸なできごとの後、大人の歌手に成長をした。

米国でのジャッキー・チェンとの恋

1979年、テレサ・テンはパスポート事件に巻き込まれる。台湾のパスポートではなく、インドネシアのパスポートで日本に入国をしようとして、旅券法違反に問われ1年間の国外退去処分を受けた事件だ。

日本は、1972年に日中国交正常化をしたため、台湾とは国交を絶っていた。そのため、台湾である中華民国のパスポートで日本に入国をしようとすると、煩雑な手続きが必要になるため、インドネシアのパスポートを使った。当時、台湾の著名人や実業家の多くがインドネシアのパスポートを取得し、台湾と国交が絶たれた国の入国時に使っていた。もちろん、インドネシア政府発行の正式なパスポートだ。

しかし、この問題で、日本での歌手活動ができなくなったテレサ・テンは、米国留学をした。

そして、米国でジャッキー・チェンと出会い、恋に落ちた。ジャッキー・チェンは前年に「スネーキーモンキー蛇拳」をヒットさせ、スターとして注目されるようになり、契約問題に悩まされるようになっていた。これにより、ゴールデンハーベストで「ヤングマスター/師弟出馬」を、別の契約で「醒拳」を同時並行で撮影しなければならなくなった。ハリウッド進出を考えていたジャッキー・チェンは、ヤングマスターの撮影が終了すると、単身米国に渡ってしまった。ここでテレサ・テンと出会うことになる。

しかし、長続きはしなかった。この頃のジャッキー・チェンは、さまざまな契約トラブルに巻き込まれ、それが自分の夢であるハリウッド進出の足枷になっていることに精神的な余裕を失い、一方で香港で成功したことで傲慢にもなっていた。テレサ・テンを傷つけるような言動をすることも多かったという。

その後、二人はいい関係の友人となったが、恋愛関係になることはなかった。

ジャッキー・チェンテレサ・テンは、米国で恋に落ちた。しかし、長くは続かなかった。

結婚式の5日前に、やはり歌を選んだテレサ・テン

この頃から、テレサ・テンは周囲に引退をしたいという胸の内を明かすようになる。引退をして、普通の人として結婚をして、平凡な家庭を築きたいというのがテレサ・テンの夢になった。

1981年10月、テレサ・テンは友人の紹介で知り合ったマレーシア華人の郭孔丞と婚約をした。マレーシアで一二を争う富豪の御曹司だった。郭孔丞の祖母は、テレサ・テンに結婚をするにあたって3つの条件を出した。それは「過去の男性関係を明かすこと」「芸能活動をやめること」「芸能界の人と交流しないこと」だった。芸能界をやめることには同意をしたが、友人たちを失うのは受け入れがたい条件だった。テレサ・テンは、郭孔丞が自分の味方になって、祖母を説得してくれることを期待したが、郭孔丞は祖母の言いなりだった。

結婚式も決まり、その5日前、テレサ・テンの元にウェディングドレスが届けられた。引き出物の中に、二人の名前が入ったマッチ箱があった。テレサ・テンは、そのマッチを取り出し、火をつけて、ウェディングドレスを燃やしてしまった。

そして、テレサ・テンが「日本のお父さん」と呼ぶ舟木稔に電話をして、こう告げた。「歌はやめません。結婚はしません」。

▲歌をやめて家庭に入ろうとしたテレサ・テン。しかし、結婚式の5日前に、届いたウェディングドレスを燃やして、やはり歌を選んだ。

映像の中で生き続けるテレサ・テン

そして、テレサ・テンは「夜来香」などの名曲を世に出した後、喘息が悪化をし、タイのチェンマイのメイピンホテルで静養をしていた。1995年5月8日、テレサ・テンはここで気管支喘息の発作を起こし、搬送先のチエンマイラム病院で亡くなった。

テレサ・テンのA面は、「淡淡幽情」を世に送り出した偉大なアーティストだが、B面は初恋を感じさせる明るい女の子だ。そして、幸せを追い求めながら、いつも手をすり抜けてしまう。そのことを嘆くのではなく、冗談にして、深い味の歌を歌う。

若い世代がテレサ・テンのB面を知り、ファンになるのも、豊富な資料映像が残され、それがビリビリなどで手軽に見られるようになっているからだ。ビリビリを見ている若者たちは、テレサ・テンに初恋をしている。再び、テレサ・テンの人気が高まっている。

テレサ・テンの墓。台湾新北市にあり、テレサ・テン記念公園として整備をされている。命日の5月8日には多くの人が集まる。

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Posted by teresateng