「私、もう熱海 嫌です」(テレサ・テン)
来日間もない頃、鄧麓君は日本になじもうと懸命の努力をつづけたが、台湾や香港とはまったく異質な日本の音楽業界のシステムに慣れるのはなかなか楽ではなかったようだ。デビュー早々、新曲キャンペーンのために地方のキャバレーまわりをやらされた。酒に酔った客の前でも歌を披露しなければならず、彼女のプライドは傷つけられていく。アジアでは人気ナンバーワンの自分が、なぜ酔っ払いのために歌わなければならないのか。なぜキャリアの短いアグネス・チャンよりも格下扱いされるのか……。だが、日本人は彼女の屈辱感に気づきもしないで、またアジアからの出稼ぎ歌手がひとり増えた、くらいにしかとらえていなかった。
『華人歌星伝説 テレサ・テンが見た夢』(平野久美子)より
慣れぬ環境とハードスケジュールで食事もあまりとれなくなったテレサを案じて、所属のレコード会社は彼女に母親との同居をすすめ、原宿にある台湾人がオーナーをしている高級アパートの一室を用意した。
(どういう場面なのか、詳細は不明)
(写真とキャプションは、「龍騰天下 像鄧麗君這樣純淨的外省女孩臺灣是再也沒有了!」より)
「西田さん、私、もう熱海(アタミ)嫌です」
『追憶のテレサ・テン』(西田祐司・著)より
最初はテレサが何をいっているのかわからなかった。だが、よくよく聞くとテレサは「もうクラブまわりは嫌だ」といっているのだった。
テレサは僕らがレコードプロデュースをする五年前に、一度日本の大手プロダクションから歌手としてデビューをしていた。当時はアグネス・チャンなどが流行したこともあり、テレサも同じようにアジアのアイドルとしてデビューしたのである。
『空港』で新人賞を獲得をしたものの、レコードの売上げはそれほど伸びず、活動も順調に進まなかったらしい。このときに、テレサは多くのクラブをまわっての営業活動をしたのだった。
別にテレサの歌を聴くためにやって来たのではない客たちのまえで、しかも酔っ払った男たちのまえで歌うことは、テレサにとって屈辱以外の何ものでもなかっただろう。
そんな当時の思いが、テレサに 「熱海嫌です」 という言葉をいわせたのだ。
一方でこんなエピソードもある。
「空港」ヒット後にスランプがあり、キャバレー回りが続いたが、昭和52年4月に開いたヤクルトホールでの初コンサートが大盛況。デビュー以来の超ミニ衣裳も披露し、その脚線美をほめると、「顔がブスだから脚を見せるの」とはずかし気に笑った。その年の秋には、日大の学園祭にも呼ばれ、学生から「パンツはいてますか?」という意地悪でHな質問も飛びだしたが、「私、そんなにセクシー?」とやり返していた。テレサの口から「キャバレーで酔った人を相手にするより何倍も楽しかった」と学生との触れ合いを楽しんでいた姿に胸があつくなった。
「ヤング 懐かしの編集後記」(湯浅敏弘氏)より