パスポート事件 Passport Incident
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テレサ・テン“偽造”パスポート入国騒動<日刊ゲンダイDigital>
公開日:2013/10/03 07:00 更新日:2018/06/22 09:42
<1979年2月>
台湾出身のテレサ・テンがこの世を去ったのは95年。今も人々の記憶に残る歌手として人気は衰えないが、スキャンダルを背負った不遇な一面も持ち合わせていた。最初は26歳の時。“偽造”パスポートで入国し、国外退去処分を受ける騒動があった。
2月24日昼すぎ、東京都港区の東京入国管理事務所前に報道陣が集まっていた。偽造旅券を使って入国したという不法入国の疑いで、同事務所内に収容され続けていたテレサ・テンが釈放されるというのだ。
現れたテレサの表情からは疲れは見えなかったが、報道陣の偽造パスポートについての質問には答えることはなく、友人のシンガポール人女性やレコード会社社員に囲まれて車に乗り込んだ。処分は国外退去と1年間の日本入国禁止。行き先は成田空港。テレサは追いかけてきた報道陣におわびのメッセージを書いたメモを渡し、足早にアメリカへと立ち去った。
経緯はこうだ。釈放の7日前の17日。新宿の東京ヒルトンホテルに宿泊中のテレサの元に、東京入国管理事務所の係員が訪れた。入国管理事務所は在日インドネシア大使館から「中国系の女性がインドネシア人『テング・エリー』名義の偽造パスポートで日本に入国する可能性がある」という緊急通報を受けていた。その「テング・エリー」こそ、14日に香港から羽田空港に到着、日本に入国したテレサだった。テレサは取り調べには素直に応じ、入国の際に使ったパスポートが不正に作成されたものであることを認めた。このパスポートはインドネシアで彼女のファンから2万香港ドル(約80万円)で買ったものだという。偽造といってもインドネシア政府発行パスポートでまったくの偽物ではなく、現地の役人を巻き込んで不正発給されたものであった。
もっとも、テレサは正式な母国台湾のパスポートも持っていたから、マスコミはいぶかった。実は事件の7年前の72年9月に日中共同声明で、日本政府は中国本土の「中華人民共和国」を「中国の唯一の合法政府」と承認した。これに伴って台湾の「中華民国」とは国交断絶になった。台湾国内の日本大使館も閉鎖。日本に来るためのビザを取るのにも1、2カ月かかるようになったという。
彼女は「台湾の立場が今のようになってから諸外国への出入りが不便になってしまった」とも供述した。当時、台湾の芸能人はこんな事情からインドネシアのパスポートを持つ人も少なくなかったという。
テレサは14歳で台湾で歌手としてデビュー、アジア諸国でも人気を集める。74年からは日本でも歌手活動を開始。その年の日本レコード大賞新人賞を受賞。アグネス・チャンや欧陽菲菲らとともに外国人アイドルとして人気を集めた。
しかし、この事件で日本でのテレビ出演などはストップ。再来日して活動を再開するのは5年後の84年。リリースしたのは大ヒットした「つぐない」だった。
◇1979年2月 1日、イランのイスラム法学者ホメイニ師が亡命先のフランスからイランに帰国。イラン革命の機運高まる。7日、埼玉県深谷市の旧家跡で時価1億といわれる小判489枚の入ったかめが発見される。17日、ベトナムと中国の中越戦争始まる。
日刊ゲンダイDigital「テレサ・テン“偽造”パスポート入国騒動」
アジアの歌姫「テレサ・テン」が5年間来日できず…“日本の父”が語った「パスポート事件」の真相<デイリー新潮>
2024年08月13日
テレサ・テン(1991年7月撮影) 禁じられた愛や内緒の恋には、哀しみと抗いがたい魅力とが同居している――。たどたどしさを孕んだ外国人歌手の日本語と歌から、このことを教えられた人も少なくないだろう。平成7年(1995)、42歳の若さで死去したテレサ・テン。テレサが“日本の父”と慕った人物はかつて、彼女の転機は20代の時に経験した「パスポート事件」だと語っていた。後に「雌伏5年」を強いられることになった事件の真相とは。
(「週刊新潮」2015年8月25日号別冊「『黄金の昭和』探訪」より「『スーパースター』運命の一日 テレサ・テン:雌伏5年を強いた偽造パスポート事件の真相」をもとに再構成しました。
***
テレサが犯した“うっかりミス”
「あの事件は間違いなくテレサの転機。自分を見つめなおすきっかけになったんですから」
と話すのは、そのころテレサが所属していたレコード会社「ポリドール」の編成部長・舟木稔氏(82)だ。彼とテレサの付き合いは、彼女が20歳の時から亡くなるまでの23年間。彼女をして“日本のお父さん”と言わしめた人物である。
そう、彼女の運命の一日を物語ろうと思えば、昭和54(1979)年2月17日をおいてほかにはない。朝日新聞(同年2月19日付)は夕刊の社会面において、「テレサ・テン偽造旅券で入国」の見出しで、大要こう伝えている。
〈テレサ・テン(24)が、香港で買ったインドネシアの偽造旅券を使って入国していたことがわかり、法務省東京入国管理事務所は、彼女を収容して事情を聞いている。2月14日、新曲レコーディングのため香港発の中華航空で羽田に着いたが、このとき使用した旅券が偽造とわかり、テレサも「台湾政府発行の旅券のほかに必要な渡航証明が手に入らなかったため、香港で、2万香港ドル(当時のレートで約80万円)を払ってインドネシアの旅券を買い入国した」と認めた〉※編集部註:旅券(パスポート)自体はインドネシア政府が発行したものだったといわれている
そこに至る軌跡をたどると――1月10日、台湾を出国して香港に入国したときには、いずれも台湾のパスポートを使っている。現地での仕事を終えた翌月13日、台湾帰国の際に、テレサは“うっかりミス”を犯したのだ。舟木氏が逐一を振り返る。
なぜインドネシアのパスポートだったのか
1991年7月、新曲プロモで来日したテレサ・テン 「台北で母親と落ち合って日本へ来る予定でした。台湾のパスポートを使って香港を出国したまではよかったのですが、台北の空港で、誤ってインドネシアのバスポートを出してしまう。『しまった!』と慌ててこれを収め、香港へ舞い戻った。そして14日、そのインドネシアのパスポートを使って来日したのです。ええ、何事もなく入国できました」
問題のパスポートは、テレサの写真が貼付された「テン・エリー」名義。在ジャカル夕日本大使館で取得した日本ビザもくっついていた。しかし、よりによってなぜインドネシア人に成りすます必要があったのか。
「台湾は、日米のみならずほとんどの国と国交を断絶していた。だから、“台湾のパスポート”だけでは諸外国への出入りがとても不便。そのうえビザも取らなければいけないので、時間がかかって仕方がない。そこへいくと、インドネシアのパスポートは手に入れやすいし、それで出入国が楽になるから重宝されていましたよ」(当時を知る関係者)
舟木氏がこれを受ける。
「実際、あの頃の台湾の芸能人や海外での仕事が多いビジネスマンは、台湾だけでなくインドネシア等のパスポートも持っていた。国交のない国へ入るために、インドネシアの方を使うことがよくあったのです」
この頃はフランス在住だった 勾留は7日間
テレサのことを知らぬ者などいない台湾で、彼女が台湾以外のパスポートを呈示したとなれば、足がつくに決まっている。事実、日本へ“密入国”を果たしたちょうどそのおり、東京の入管事務所あてに、次のような情報がもたらされた。
〈偽造インドネシア旅券で台湾入りしようとして入国を拒否されたテン・エリーなる女性が、日本へやってきた可能性がある〉
入管が調べたところ、テン・エリーことテレサ・テンが母親らと、東京ヒルトンホテル(現・ザ・キャピトルホテル東急)に投宿していることがわかった。
「17日の夜8時頃に、『入管がテレサを連れて行った』という電話を彼女のお母さんからもらい、驚いたのを覚えています。テレサはそのまま港区港南の入管事務所に勾留されてしまいました。外国人が何人もいる相部屋で格子つき。ただ、不法行為とはいえ、彼女の不注意と国交の事情あってのことだから、2、3日で解放されると楽観していたのです」(同)
意外にも勾留は7日間に及んだが、その間、舟木部長の頭を悩ませたのは、“彼女のその後”のことだった。
「日本の当局は『日本国外なら何処へでもどうぞ』というスタンス。でも、台湾側は彼女の身柄引き渡しを強く要求していました。となると処罰されるし、海外に出ることもできなくなる。もちろん歌手生命にも関わる。とにかく台湾だけは避けなければと……。日本の外務省など関係部局と協議した結果、ロサンゼルスに決めたのです」(同)
そして2月24日、傷心の歌姫は機上の人となった。
パスポート事件で日本を離れ“成長”した
――事件から1年後には条件付きで台湾帰国を許された彼女だったが、再来日を果たすまでには、5年の歳月を経ねばならなかった。
「ポリドールとの契約は切れていましたが、そこから分かれた会社に私が在籍しており、再契約をすることができた。日本からの国外退去処分の期間は1年でしたが、時間がかかってしまいましたね」(同)
その後に発表した「つぐない」「愛人」は150万枚を売り上げ、復帰三部作の掉尾を飾る「時の流れに身をまかせ」は200万枚の大ヒットを記録した。
「昭和49年にリリースした『空港』以降、彼女は取り立てて言うほどのヒットに恵まれていなかった。いわば1.5流だったテレサが、30歳を迎えてからの活動で確固たる地位を築いた。パスポート事件で日本を離れて、“成長”することがなかったら、代表曲は誕生していなかったかもしれません」
女の幸・不幸を歌い上げたテレサは、その両者が隣り合わせにあることを、身をもって知っていたひとりなのである。
フランス人カメラマンの恋人を伴っての来日だった 現在も「アジアの歌姫」と呼ばれ続けている デイリー新潮編集部
デイリー新潮
テレサ・テン偽造旅券事件の真実<Electronic Journal>
2005年06月14日
テレサ・テン偽造旅券事件の真実(EJ1612号)
1979年2月17日のことです。そのときテレサ・テンはレ
コーディングのため、日本に来ており、東京ヒルトンホテルに母
親と宿泊していたのです。
そこに東京入管管理事務所の係官が訪れ、不法入国の疑いがあ
るとしてテレサ・テンを連行していったのです。調べに対しテレ
サ・テンは、違法にインドネシア旅券を取得し、それを使って日
本に入国したことをことを認めたので、彼女は東京入管に身柄を
拘束されてしまったのです。
どうしてこんなことが起こったかです。1978年12月、テ
レサ・テンは公演のためインドネシアに滞在していたのですが、
ある友人の勧めによってインドネシア旅券を2万香港ドル――約
80万円で購入するのです。もちろん違反であり、旅券は偽造旅
券取得ということになるのです。
偽造旅券というと、他人の旅券の写真部分を貼り替える手口が
多いのですが、テレサ・テンの場合は、「テン・エリー」という
インドネシア女性を騙り、テレサ・テン自身の写真で旅券を取得
しているのです。つまり、正規の旅券を地下ルートで取得したこ
とになります。テレサ・テンはこの旅券でジャカルタの日本大使
館で日本ビザを取得しているのです。
1979年1月10日にテレサ・テンは台湾を出国して、シン
ガポール公演と香港公演をこなしています。このときの出入国に
は台湾旅券を使用しています。
2月13日にテレサ・テンは香港から台湾に戻るのですが、そ
のとき誤ってインドネシア旅券を提示してしまうのです。当然ビ
ザがないとして台湾の入国は拒否され、出発地の香港に送還され
てしまうのです。そのとき既に有名人であったテレサ・テンと台
湾の入管職員とのやり取りを『中国日報』の空港駐在記者に目撃
されてしまうのです。
その記者は入管の係員から事情を聞き、インドネシア政府の連
絡機関であるインドネシア商会にテレサ・テンにパスポートを発
行した事実があるかどうかを確認したところその答えは「ノー」
であったのです。
一方、香港に戻されたテレサ・テンは、14日に中華航空機で
羽田に向うのです。そして、彼女は羽田の東京入管でも問題のイ
ンドネシア旅券を提示します。東京入管では旅券には日本ビザも
付いていたので入国を認めたのです。そして、彼女は指定の宿舎
である東京ヒルトンホテルに宿泊したのです。
『中国日報』の記者からの通報で事態を知ったインドネシア外
務省は追跡調査を開始します。15日になって在日インドネシア
大使館は東京入管に「現在中国人女性が所持している「テン・エ
リー」名義の旅券は、違法に取得されたものである」との通告を
行ったのです。
こうして東京入管の係官が2月17日に東京ヒルトンホテルに
出向き、テレサ・テンの身柄を確保したというわけです。この事
実は『中国日報』をはじめとするメディアによつてに詳しく報道
され、大きなニュースとなってしまったのです。
この事態に困惑したのは日本ポリドールです。台湾からは、テ
レサ・テンを台湾に強制送還するよう強く求められていたからで
す。しかし、それに応ずると、再び出国することが困難になり、
最悪の場合、歌手をやめさせられることも考えられたからです。
それにテレサ・テン本人も「台湾には帰りたくない」と強く主張
していたのです。
日本ポリドールは、大物弁護士を介して法務省と交渉し、コン
サートのスケジュールの決まっている米国に行かせることで決着
したのです。そして、2月24日にテレサ・テンは国外退去処分
を受け、パンアメリカン機でサンフランシスコに向ったのです。
これによって、今後1年間は、日本への入国は禁止されることに
なったのです。
それにしても、なぜテレサ・テンは偽造旅券などを使ったので
しょうか。
それはその当時の台湾の国情によるのです。その時点で台湾は
戒厳令がしかれており、日本をはじめとする国交のない国への出
国許可は最低でも二ヶ月、問題があれば1年くらいかかることも
あったのです。
有田芳生氏の本によると、芸能人の出国許可に関して次のよう
に書かれています。
-----------------------------
音楽や芸能活動を管轄する教育部に許可を求め、新聞局が芸
能人の実績を検討し、出入国の必要性を認める。そのうえで警
察局が形式的な許可を与え、最終的には外務部が認めることに
なる。その過程では、戒厳令総司令部による思想調査も行われ
た。当時はパスポートとともに出国許可証が必要とされていた
のである。
――有田芳生著『私の家は山の向こう』(文芸春秋)より
-----------------------------
どうやらテレサ・テンのインドネシア旅券の取得にはインドネ
シア政府関係者がかかわっており、この事件はいわゆる灰色決着
されたのです。本来であれば、不法入国は3年以下の懲役もしく
は禁固、10万円以下の罰金です。しかし、テレサ・テンについ
ては、悪意がないことと、台湾の国情、インドネシア政府の思惑
が複雑にからみ合い、東京入管としては起訴も罰金もなしの国外
退去処分と一年間の日本への入国の禁止という非常に軽い処置で
決着をつけたことになります。
この一週間の拘留の間に取調官、同じ部屋の収容者全員がテレ
サ・テンファンになるというほど、テレサ・テンの評判は良かっ
たそうです。大スターぶらずに素直に取り調べに応じ、同室の女
性たちにも礼儀正しく接し、短期間の間にみんなから好かれる存
在になっていたのです。拘束が解かれるとき、化粧をしたテレサ
・テンは同室の人たちに一曲中国の歌を歌い、きちんと挨拶をし
て部屋を後にしたということです。≪画像および関連情報≫
・テレサ・テンが宿泊した頃の東京ヒルトン
(現キャピトル東急)

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