週刊朝日「生誕70年 テレサ・テン」(2023年)
週刊朝日 2023.2.3号(2023/1/24発売)
生誕70年 テレサ・テン
今も愛され続ける歌姫の素顔
「日本の父」が語るデビュー秘話
福島県三島町との出会い
「パスポート事件」の真相
テレサ・テンアジアの歌姫とも言われ1月29日に生誕70年を迎えるテレサ・テン。「つぐない」や「愛人」などのヒットで一躍スターダムに上り詰めたが、42歳で急逝した。デビューと挫折、そして復活について「日本の父」と称される舟木稔さんや、ゆかりの人々に話を聞いた。
「初めて香港のステージでテレサ・テンを見たとき、美空ひばりの少女時代のステージを彷彿とさせる感じでした。歌がうまくて華がある。この人が噂のテレサ・テンかと感心しました」
テレサ・テンの「日本の父」とも言われる舟木稔さんはこう話し始めた。
舟木さんは、日本ポリドールで制作管理部長の仕事をしていた。当時ポリドールはアジアの歌手を日本に招聘し、デビューさせるという戦略をとっていた。そこで狙いを定めたのが台湾出身のテレサ・テンこと鄧麗君(デンリージュン)であった。
「コンサートでは1番を中国語で、2番を日本語で歌っていました。客席には日本のお客さんもいっぱいいましたからね」
舟木さんは香港ポリドールを通じてコンタクトを取った。しかし、何日経ってもなしのつぶて。香港に滞在して10日くらい経ったある日、テレサの母親から連絡があり、「内々に会いたい」と言う。舟木さんは通訳を伴って母親とテレサに会った。すると意外なほど簡単に交渉は進んだ。後は正式な契約を待つだけにして、香港を後にした。
しかし帰国するとすぐに先方から連絡があり、あの話はなかったことにしたいと言う。
「いやいや、それはないでしょう。驚きましたね」
テレサは香港に住み、母親を窓口にして芸能活動をしていたが、父は台湾に住んでいた。その父親いわく、「娘は香港、東南アジアの大スターであり、十分な収入も得ている。今さら日本に行く必要などない」と言う。
舟木さんは父親に会いに台湾へ行き、説得につとめた。
「必ず成功させます!」
舟木さんは父親と何度か話し合い、酒も酌み交わした。そのおかげもあり、父親と親しくなり、ついには「娘を頼む」となった。晴れて日本ポリドールはテレサ・テンと契約を結ぶことになる。1973年6月のことであった。
日本でデビューする前年、舟木さんは日本の当時の音楽祭のステージを見せたいと母親とテレサを呼んだ。そこで日本の歌手が賞をもらう授賞式を現場で見せた。
「華やかなシーンに感動したテレサは『私もあのステージに立つ!』と小さな声でしたけど、そう宣言しました」
舟木さんはテレサの芯の強さを感じた。
翌74年、元ポリドール社員の筒美京平の作曲による「今夜かしら明日かしら」で鳴り物入りでデビューした。しかし、売れ行きは全く期待はずれであった。舟木さんは慌てた。
「父親にまかせると啖呵を切ったので、なんとかしないといけないと焦りました」
とにかく新人賞を取らなくてはならない。そのために7月までにもう一曲楽曲を発表することにした。
現場の音楽ディレクターは「ポップな路線ではなく演歌を歌わせたい、そうでなければ担当を降りる」とまで主張した。
「じゃ、まかせると言いました。現場の言葉を信じました」
そこでレコーディングした楽曲「空港」で第16回日本レコード大賞新人賞を獲得したのだ。
「これで父親に対して面子が保てたとホッとしました。新人賞は一生に一回きりですからね」
営業活動は渡辺プロダクションに依頼していた。テレサの人気が高まるに連れ、いろいろな方面から声がかかった。