「人生はステップ・バイ・ステップ」

  て、香港の楽風(ライフ)に
  吹き込むようになったのが確
  か71年。〔ジャケットを見せ
  て〕このあたりが楽風の初期
  のLPですけど、写真が可愛
  いですね。
 あらー、丸かったねえ。
――これがいくつのときかな。10
  歳にもなってないように見え
  るけど。
 いや、17か18です。
――えっ、とてもそんなに見えな
  いな。
  それで宇宙の時代は外国曲の
  カヴァが多かったわけですけ
  ど、楽風に移ってからは中国
  人の作ったオリジナルが中心
  になったようですね。
 そう、中国人の曲ですけど、オ
リジナルとも言えないです。曲が
ひとつ作られると、同じ伴奏でほ
かの歌手も吹き込むんです。
――最初から競作にしちゃうん
  だ。それじゃテレサのオリジ
  ナルと言えないよね。
 ほんとの意味のオリジナルと言
えるのは日本で作るようになって
からです。

――古月という人の作曲が多いですね。
 そう、この人、70年代にたくさんの曲、作
ってる。台湾の人です。「晶晶」もこの人が作
曲したんです。
――楽風時代のレパートリーでいちばん代表
  的な曲というと、どれですか。
 これも古月の曲ですけど「海韻」…。
――あ、とてもきれいな曲ですね。確か楽風
  ではいちばん最後のころの曲だ。
 それから「千言万語」、これも映画の主題曲
です。
――楽風は71年から73年まで3年間ですね。
  その間に何曲ほど録音したんですか。
 たくさんですねえ…。なんか、ある人が計
算したら、私の録音はデビューからいままで
全部で1000曲以上あるんですって。LP
が100枚くらいあるって…。
――台湾も香港も、たしかシングルってない
  んですね。
 そうなんです。最初から全部LPで出すん

84ページ
(下写真)
『千言万語』

です。もちろんそのころはカセットもまだな
かったから。
――日本ポリドールと契約したのが73年です
  ね。そのときのお気持ち、どうでしたか。
 うれしかったです。日本の歌、好きだった
し、日本でのデビューにあこがれてましたか
ら。欧陽菲菲やアグネス・チャンがヒットを
出してるし、私も日本で歌いたいなあ、と思
ってました。日本語も憶えたかったから、日
本でヒットしなくても日本語憶えるだけでも
いいと思って、日本に来たんです。
――それで「空港」のヒットが出た。でも日
  本に住んで日本語のオリジナルを次々に
  出してた74年、75年ごろにも、それと同
  時に香港ポリドールから全然別の中国語
  のオリジナル曲も出し続けてましたね。

  そうです。香港に行って録音したり、東京
でも中国語の曲を録音したこともあります。
――そのころの曲で「小城故事」とか「你怎
  麼説」とか、いい曲をヒットさせてます
  ね。
 76年か77年ごろの曲ですね。インドネシア
の曲の「甜蜜蜜」とか…。
――そして79年にパス
  ポート事件という
  のがありましたけ
  ど、いまあのとき
  のこと、どう思っ
  てますか。
 もっとケアフルにし
なくてはいけないな、
と思いました。あのこ
ろ大陸のほうの共産党
が強くて、台湾は孤立
してたでしょ。当時の

台湾のシステムがちょっとおかしかった。例
えば香港で3か月の仕事を契約すると3か月
分のパスポートしかくれない。それが終わっ
たら台湾に帰って、また次の契約期間のパス
ポートをもらわなければならない。仕事の途
中で一度台湾に帰ると、また別のパスポート
を取らなければならない。私は外国が好きだ
し、旅行が好きだから、とてもパスポートを
いちいち取り直すのが大変でした。それで友
達が〔偽の〕パスポートの人、紹介してくれ
ました。そのとき私は何がよいことで何が悪
いことか、混乱してしまってたんです。でも
あの事件を教訓にして、人生を注意深く過ご
すようになりました。
――だいたいぼくが推測して連載の記事に書
  いたとおりだったみたいですね。それで
  アメリカに行っちゃって、1年半ほど向
  こうにいたようだけど、アメリカでの生
  活は楽しかったですか。

85ページ
(上写真)
香港デビューした頃(楽風のレコードから)

(下写真)
上の2点は楽風時代(20歳前)、下
はポリドール移籍後(25歳)の作品

2020年11月27日Articles,Words

Posted by teresateng