「日本の父」が憤怒した突然死の真相
日本だけでなく「アジアの歌姫」に君臨したテレサ・テンは、95年に突然の死を迎えた。世に歌姫と呼ばれた歌手は数あれど、テレサほど「男の理想像」を表現できた女はいない。たおやかで、母性的で、愛らしいままに世を去ったテレサは、しかし、誰よりも数奇な生涯を送ってきた─。
「デビュー曲」は失敗に終わった
「大変です。共同通信からのFAXで、テレサがタイで死んだって!」
95年5月9日のことだった。トーラスレコード副社長(当時)の舟木稔は、宣伝部次長の知らせにけげんな顔で答えた。「バカなこと言ってるよ。エイズで死んだとか暗殺されたとか、また同じたぐいのデマだよ」
デマではなかった。NHKや新聞社が次々と取材に駆けつけ、確認に追われた。舟木は台湾に住むテレサの家族たちに連絡を取り、ようやく三男がつかまった。
「‥‥私の妻と弟がチェンマイに向かいました」
アジアを代表する人気歌手のテレサ・テンは、5月8日午後5時半、静養先のタイ・チェンマイのホテルで、気管支喘息の発作により42歳の若さで世を去った。テレサにとって「日本の父」であった舟木は、偶然にも死亡と同時刻にテレサの母親と電話をしていた。「新曲のレコーディングをしたいんだけど、テレサと連絡が取れないんだよ」
「わかったわ。今晩、テレサから電話がくるから伝えとくわ」
それは鳴るはずのない電話だった‥‥。
舟木は、テレサと初めて会った73年の春を思い返した。当時、欧陽菲菲やアグネス・チャンが台頭し、舟木が制作管理部長を務めていたポリドール・レコードでも、アジアからの輸入歌手を探していた。
「たまたま手にした本に、台湾に美空ひばりのような天才歌手がいると書いてあったんです。スタッフに見に行かせたら、どこのクラブ公演でもテレサがトリを取っていた。声もいいし、ステージ映えもするので、この子しかいないと的を絞ったんです」
14歳でデビューしたテレサは、台湾だけでなく香港やシンガポールで幅広く活躍していた。レコードも売れたが、それ以上にステージなどの営業がケタ違いに多かった。
舟木は香港に出向き、母親と3人で「日本デビュー」に向けての話し合いを持った。テレサはほとんど口をはさむことはなかったが、日本の「明星」や「平凡」を愛読しており、舟木の目には意欲が感じられた。
「娘が日本でやってみたいと言うのなら‥‥」
母親は背中を押すことにした。そしてテレサは、ポリドールと渡辺プロが折半で面倒を見るという形でデビューする。74年3月1日に発売された「今夜かしら明日かしら」がデビュー曲だが、1万枚に満たないセールスに終わる。同曲を手がけた作詞家の山上路夫が回想する。
「アイドル路線というか、上の世代にも下の世代にも届くようにという狙いだったが、それが中途半端で届かなかった」
山上は、初めてテレサに会った時に「むきたて卵のような顔」と思った。こんなあどけない子が、日本の歌を歌えるのだろうかと思った。ただ、テレサは他の外国人歌手よりも日本語が完璧だった。アジア圏の特徴として「つ」の発音がうまくいかないが、テレサは滑らかだった。
「ヒットしなかったのは私の歌い方が悪いからです」
テレサは、デビューに際して、強い責任感を持ってた。
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早世のマドンナたち④ テレサ・テン 「日本の父」が憤怒した突然死の真相(2)
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涙した営業先での「お酌接待」
〈愛は誰にも 負けないけれど 別れることが 二人のためよ〉
つい先日、NHKで再放送された「歌伝説 テレサ・テンの世界」で白眉だったのは、85年12月のコンサートで歌った「空港」だった。シンプルな歌詞ではあるが、テレサの伸びのある高音で情感たっぷりに歌われ、物語の奥行きを何重にも深めている。
この曲こそが、デビューから4カ月後に放った“勝負曲”だった。作曲は筒美京平から猪俣公章に代わったが、作詞は前作と同じ山上路夫である。
「曲は演歌調になるが、歌詞は国際的な感じにしてほしいという注文でした。西洋映画のように、男がどこかへ行ってしまう‥‥となると『空港』が舞台になりましたね」
74年7月1日に発売された「空港」は、17万枚を超えるヒットとなり、年末の日本レコード大賞でも新人賞に選ばれた。舟木は、新人賞を心から喜ぶテレサの姿に胸をなで下ろした。望んで日本に来たとはいえ、やはり、文化の違いにとまどいもあった。
「テレサが最もショックだったのは、クラブ営業などで酔客に絡まれること。香港や台湾は舞台と客席が離れているが、日本は客席を回って歌うことも多い。また地方では関係者にお酌をさせられたことにも泣いて訴えてきた」
テレサは「私は歌うために日本に来た」という一念だったのだ。
ちなみに新人時代のテレサは、月給50万円だった。日本の新人と比べれば格段に好条件だが、それでも来日前には10倍近い金額をもらっていたという。
やがてテレサは、ぷつりと日本に来なくなった。正確には「来れなく」なったのが、79年2月に起きた「パスポート事件」である。テレサの本籍である台湾は、当時、戒厳令下にあったため、日本への入国も台湾からの出国も手間がかかった。そのため、たまたまインドネシア政府が発行していたパスポートを使っていたが、これが入国管理法違反となり、「国外退去処分」となった。
「それでテレサはアメリカに渡り、サンフランシスコやロスアンゼルスで学校に通った。こちらからロスまで行ってレコーディングしたこともありました」
日本での表立った活動は休止したが、台湾や香港での人気は過熱する一方だった。やがて中国大陸でも異常なまでのブームとなったが、当局はテレサの曲を「精神汚染」「黄色歌曲」として追放キャンペーンを張る。それでも、と舟木は言った。
「テレサの歌を聴きたいがために、中国から台湾に亡命した軍人もいたぐらいでした」
こうした人気の広がりもあり、テレサのレコードは累計で1億枚を下らないと言われる。中華圏では海賊版もおびただしいため、実際は天文学的な数字になるだろう。
そして84年1月、5年ぶりの再来日が許可されたテレサが歌ったのは「つぐない」だった。以来、作詞・荒木とよひさ、作曲・三木たかしのコンビは立て続けにテレサの大ヒット曲を作る。「僕の人生観はテレサに『つぐない』を書いたことで変わった。これで作詞家として一生、書いていけると思った」
今では日本作詞家協会の副会長を務める荒木とよひさの弁である。
一回り年下の自称カメラマン
84年に「つぐない」で、85年に「愛人」で、86年に「時の流れに身をまかせ」で、テレサは日本有線大賞と全日本有線放送大賞の、いずれもV3でグランプリという史上初の快挙を達成する。酒場の主役が有線だった時代、テレサの歌は街のあちこちに息づいていた。
85年12月には日本で唯一の本格的なコンサートをNHKホールで開き、デビューから10年以上を経て「紅白歌合戦」にも初出場を決めた。
「新人賞の時もテレサは泣いて喜んだけど、やはり『紅白』に出場することは格別の思いがあったようです」
舟木は、さらに9年が経った94年10月23日、テレサのヒット曲になぞらえるなら〝別れの予感〟を味わう。結果的に最後の来日となったのは、NHKのチャリティーコンサートに出るためだったが─、
「その年の春から風邪気味が続いていたけど、この来日は直前まで点滴を打っているほど具合が悪かった。日本からスタッフが香港まで迎えに行き、それから名古屋を経由して会場の仙台に乗り継いだんです。番組のテロップに『体調不良を押して』と入れてもらったほど、テレサにしては声が出ていなかった」
こうした状態が続き、テレサはタイ・チェンマイのホテルに滞在して静養するようになる。同行したのは、テレサがパリでレコーディングした際に知り合ったピエールという「自称カメラマン」だった。テレサより一回りほど年下の、いかにもジゴロの匂いがする男である。舟木はピエールに会った時に彼が撮った写真を見せてもらったが、ただの素人にしか思えなかった。
作詞家の荒木とよひさは、ようやくテレサの新曲となる詞を書き終えた。そのタイトルは「忘れないで」であったが、テレサによって歌われることはなかった。
「また日本で歌いたいって聞いてて、ちょうど歌が完成して、僕の事務所で『よかったね』と話していたら‥‥亡くなった知らせを聞いたんです」 舟木は亡くなる少し前にテレサと電話で話した。
「今、どこにいるの?」
「タイで休暇を取っています」
「そうか、じゃあ都合のいい日ができたらタイに行くよ。レコーディングの段取りを決めよう」
それが最後の会話となった。舟木は後に、テレサの弟からホテルの廊下で倒れ、そのまま絶命したと聞かされた。その時、ピエールはチェンマイに遊びに行っていたとも‥‥。
「彼がそばについていたら、すぐに救急車を呼んでいれば助かったんだと思います」
さらにピエールは、テレサが建てた香港の豪邸を「遺産」として要求し、遺族の逆鱗に触れている。
テレサが歌うことのなかった「忘れないで」は、アグネス・チャンなど多くの歌手によって蘇った。そのタイトルのままに、テレサ・テンの歌世界は記憶から消えることはない。
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