『週刊現代』2012年12月8日号

も悩んでいました。時々、グチをこぼすので、私は彼女を慰めたりしていました。

荒木 王さんがフジテレビで音楽番組を担当されていたころですね。

 たまたま私の父親とテレサの母親が中国の同郷で。お互いに親近感が湧き、距離が一気に縮まったのです。テレサからは「なぜ、日本は同じ曲ばかり歌わせるの?」「なぜ、私はミニスカートをはかなければならないの?」と何度も聞かれました(笑)。

有田 台湾や香港などではすでに「大スター」でしたから、日本に来てドサ回りやほかの歌手と相部屋にされるような待遇に、複雑な思いがあったと思います。

荒木 でもめげなかったですね。女性らしさやかわいらしさより、強さを感じさせる人でした。

 私もそう思います。

荒木 熱い人でもあった。よくお酒の席で、テレサが三木さんと議論をはじめるんです。ある時は「愛のために死ねるか」というテーマで、いつまでも白熱するばかり。僕は面倒くさくて、両方の意見に「そうだよね」と言っていましたよ(笑)。

 こだわりのある人でもありました。やはり荒木さんと三木さんがつくられた「愛人」が発売された’85年、NHKホールでのコンサートの演出を任されたのですが、彼女はピリピリしながら、髪型から衣装まで全部チェックしていました。

有田 どちらも彼女らしい話ですね。

(写真)’74年、テレサの日本デビューは「アイドル」としてだった

「もう一度日本に行きたい」

 テレサの人生で境目となったのは’79年のパスポート事件だったと思います。

有田 同感です。偽造パスポートを使って日本に入国したとされ、国外退去処分になりました。

 直後に芸能リポーターなどから激しく責め立てられて、日本に不信感めいたものを持ち始めていました。

有田 ショックだったでしょうね。

 テレサに罪を犯す意識はありませんでしたから。当時の台湾は、ピザの発給にすごく時間がかかったそうですね。

有田 台湾は国際的に孤立していましたから、あのころは海外渡航手続きが一苦労でした。そこで正規の手続きを踏まずに発給されたパスポートが、海外で仕事をする人間に流行していたんですよ。テレサは、インドネシアで「いい方法がある」と、彼女の大ファンから声を掛けられ、パスポートを買った。しかも偽造ではなく、インドネシア政府が発給したパスポートでした。そんなものが入手できてしまう時代でした。

 国外退去処分を受けたあと、電話で彼女と話したところ、「便宜を図ってくれるというから、お金を払った」と言っていましたね。

有田 そう。単に利便性を求めただけでした。しかし、日本への再入国が認められたのは、5年後の’84年です。

荒木 私がテレサと出会ったのは、その後でした。当時の彼女はちょっと不遇でしたね。ポリドールを離れた後、手を挙げたレコード会社は少なかった。パスポートの件があったためでしょう。最終的には舟木さんのトーラスに所属しました。

 パスポート事件前はテレサから政治的な部分を感じたことは一度もありませんでしたが、事件後は少し変わったように見えました。

有田 事件後は、軍の慰問への協力を条件に、台湾へ帰国しました。当時はまだ、台湾と中国の両岸対立が激しかった時代。台湾ではテレサの人気を政治的に利用しようとする動きも出てきた。ただし、中国本土でも改革開放路線が始まり、テレサの人気が出てくるんです。彼女のカセットは闇で出回ったりしていました。

荒木 中国では「昼は鄧小平の旗を振り、夜は鄧麗君 (テレサの母国名) の歌を聴く」と言われていました。

有田 そうなると、中国政府も、逆にテレサを政治宣伝に利用しようと考える。上海でのコンサートを企画して、香港でテレサ側に持ち掛けていたんです。

 そうでしたか。

有田 だけど、’89年の天安門事件の際、香港での民主化運動に参加。そのため中国本土に入れなくなった。

 その直前の頃だと記憶していますが、シンガポールにいたテレサから電話が入ったんです。テレサは「怖い」と言いました。北京の新聞記者から、シンガポールの自宅に電話が入ったそうなんです。「なぜ電話番号が分かるのか」と心配そうで。

有田 「中国青年報」の記者ですね。

 本人の知らないところで、何かが暗躍している感じを受けました。

有田 彼女自身はイデオロギーより、純粋な気持ちで行動しただけなんですけどね。スパイ説もささやかれましたが、あり得ないですよ。

荒木 うん、ありっこない。

有田 台湾のスパイだという説は、台湾の情報軍人の証言が日本の週刊誌に載り、それが台湾と香港の週刊誌にも転載されたのですが、私がその軍人に2度会って確かめたところ、あっさり撤回しました。

 パリで暮らし始めたのは’89年からでしたね。

有田 テレサは私に「周囲が知らない人ばかりのほうが、心が安定する」と話していました。

荒木 でも、日本のことは好きだったと思います。パリで会った際には「もう一度日本に行きたい。先生、どう思う?」と助言を求められました。僕は「みんなに求められているのだから来ればいい。嫌になったらパリに戻ればいいじゃないか」と言いました。テレサは日本の風土や食べ物も好きでしたから。

 日本食は好きでしたね。

荒木 一時期は僕の顔を見るたびに「ふぐ、ふぐ、ふぐ!」と口にしていました。

有田 最後の来日は’94年の10月。仙台市でNHKの「歌謡チャリティーコンサート」の公開収録に臨むというので訪ねたところ、テレサの体調はリハーサルにすら出られないほど最悪でした。控え室で横になっていたのですが、相部屋の女性歌手たちに親切にされていたのが印象的です。

 テレサは、同性の歌手から慕われました。テレサと仲良くしていると、ほかの女性歌手から羨望のまなざしを向けられたようです。

有田 亡くなったのは、その翌年の5月。フランス人の恋人との旅行先であるタイのチェンマイで。42歳でした。

荒木 この時も突然だったせいか、暗殺説まで流れました。ぜんそくによる発作を起こした後の応急処置が悪かったそうですね。

有田 せんそくは持病ではなく、パリで吸い始めたタバコがよくなかった。

荒木 以前は、僕や三木さんがレコーディングスタジオの外でタバコを吸って戻ると、「タバコ吸ってきたんでしょ」と睨まれたくらいだったのに。天安門事件のあと、ちょっと精神的に参っていたのかなあ……。

 訃報を受け取った時は、言葉を失いました。

有田 彼女の死後、パリの住まいを訪れたのですが、部屋に自筆の歌の詞が残されていた。まだまだ、やりたいことがあったのでしょう。

 非常にめまぐるしい、流転の人生を精一杯生きた人だったと思います。

荒木 彼女の人生が幸せだったかというとわからない。いわゆる普通の、細く長い幸せはありませんでしたから。ただ、彼女にとっての幸せな瞬間は、間違いなくあったと思うんです。

テレサ・テンのベスト5

荒木とよひさ
1「恋人たちの神話」(1988年)
2「時の流れに身をまかせ」(1986年)
3「別れの予感」(1987年)
4「つぐない」(1984年)
5「愛の陽差し~アモーレ・ミオ~」(1992年)

①は僕が本当に書きたかったことを詞に託せた曲。テレサに一番歌わせたい歌でもありました。セールスの良し悪しなどは別問題です。
②は作曲の三木たかしさんと一緒に一番苦労してつくり、一番花開いた作品。
自分なりのレトリックでつくったのが③です。
④はテレサとの初めての仕事。人生観が変わりました。
⑤は三木さんが「一番好きな歌」と言ってくれた。アモーレはイタリア語で「私の恋人」。以前から一度は使ってみたい言葉でした

王 東順
1「時の流れに身をまかせ」(1986年)
2「つぐない」(1984年)
3「空港」(1974年)
4「ふるさとはどこですか」(1977年)
5「蘇州夜曲」(中国語版)

①はやっぱり最高の名曲でしょう。カラオケでも歌ってみたいのですが、難しくて、とても歌えませんが。
②は良い歌であるのはもちろん、音域の高低の幅がさほど広くないため、私でも歌えます。カラオケの席になると、必ず歌います。
③はアイドル路線ゆえに本人が悩んでいたデビュー曲「今夜かしら明日かしら」に続く2枚目。彼女の良いところが引き出されました。
④はテレサが自分自身に問い掛けているような歌。特別心を打たれる歌です。
⑤は母国語である中国語で歌った歌。これが、ナンバーワンだと思います

有田芳生
1「時の流れに身をまかせ」(1986年)
2「別れの予感」(1987年)
3「獨上西樓」(中国語版)
4「私の家は山の向こう」(我的家在山的那一邊) (中国語版)
5「梅花」(中国語版)

①は携帯電話の着信音にしています。中国語バ―ジョンの「我只在乎你」。
②は自著「地球の歩き方 ベトナム」を取材していた当時、ダナンの海岸で2時間聴き続けました。
③テレサが好きだった中国語に曲が付けられたもの。アルバム「淡淡幽情」のなかの名曲です。④は天安門の学生を支援するコンサートで歌いました。
⑤はチェンマイで1995年に亡くなる前、最後に歌った曲なんです。台湾の国歌とも言われています。

あらき・とよひさ/’43年、中国・大連市生まれ。日大芸術学部在学中から音楽活動を開始し、’72年に「四季の歌」で作詞家デビュー。テレサには「つぐない」「愛人」など13作品を提供

おう・とうじゅん/’46年、東京都生まれ。’64年、フジテレビに入社。「なるほど!ザ・ワールド」「クイズ!年の差なんて」などのプロデューサーを務め、テレサの日本公演の演出も手掛けた

ありた・よしふ/’52年、京都府生まれ。ジャーナリスト。民主党参院議員。取材テーマは多岐にわたり、’05年、「私の家は山の向こう~テレサ・テン十年目の真実」を上梓

2022年12月29日Articles,People

Posted by teresateng