『週刊現代』2012年12月8日号
週現『熱討スタジアム』第40回
『つぐない』『愛人』『時の流れに身をまかせ』で
3年連続有線大賞グランプリ/台湾では蒋介石に並ぶ英雄/
累計のレコード・CD売り上げは1億枚/
人気絶頂42歳で突然の死悲しい歌姫
テレサ・テンを
語ろう
今週のディープピープル
荒木とよひさ×王東順×有田芳生
これほど日本人に愛されたアジア人歌手はいない。これほどアジア全土に影響を与えた歌姫もいない。その歌声はえも言えぬ、深い愛と悲しみを纏っていた。
窓に西陽があたる部屋
荒木 テレサといえば、やはりあの声。はじめて彼女の声を聞いた時は驚きました。「これは凄い。こんな人は日本にいない」と思いましたね。
王 絶品でしたね。私がテレサのコンサートを演出したとき、打ち上げで彼女とスタッフ一同でカラオケに行ったんです。私もみんなに促されて、荒木さんが作詞された「つぐない」を歌うことになった。するとテレサが、私の横で一緒に歌ってくれたのです。マイクも持たずに生声で、それも私のすぐ耳元で。その澄んだ声の美しさには鳥肌が立ちました。
有田 贅沢な話ですねえ。荒木 テレサが日本でデビューした1970年代の中期以降は、
欧陽菲菲さんをはじめ、中国系や韓国系の歌い手さんが現れ出した頃でした。でも、テレサの声は特別だった。
有田 そうですね。どこかで訓練を受けてよくなったという訳ではなく、天性の声であり、歌でしたから。日本で言えば、美空ひばりさんみたいなものでしょう。王 日本語の発音と発声もムチャクチャきれいでした。日本人以上という印象さえ受けました。
荒木 それにテレサは歌声に「思いの深さ」があったんです。その生い立ちや、人生が歌に宿っていました。だから、中国語も日本語も関係ない。歌詞を読むより何倍もストレートに聴く側の胸に響く。歌が上手なだけの、いまの日本の若い歌い手さんとは違います。
有田 そうでしょうね。
荒木 テレサの歌が「手書きで書いた手紙」なら、いまの子たちは「パソコンで書いた手紙」くらいの違いがある。
王 中国系や韓国系の歌手の場合、鼻濁音の「が」がイマイチきれいに出ないときがあるんですが、テレサの場合は桁違いに美しかった。練習していた姿は見せませんでしたから、あれも天性だったのでしょう。
荒木 テレサの歌は語尾もハッキリ聞こえた。これは日本人歌手でも簡単ではありません。たとえば「時の流れに身をまかせ」だと、〈もしもあなたと逢えずにいたら〉の「と」と「ら」が大切なんですが、見事な発音でした。
有田 僕は携帯電話の着信音が、中国語版の「時の流れに身をまかせ」なんです。
荒木さんがおっしゃる通り、歌の思いが深いから、中国語版もいいんですよ。
荒木 「時の流れに――」は、「つぐない」「愛人」と大ヒット (いずれも売り上げ150万枚以上) が続いたあとだったので、作曲の三木たかしさんと、「もう次は難しいよね」と二人で困ってしまって。
王 へえ、そうでしたか。
荒木 なかなか曲が上がらなかったんですが、ある日の夜中、三木さんから僕の自宅にテープが届いた。聴いてみると、ギター一本の弾き語りなんですが、どうも三木さんは酔っている様子で(笑)。最初は「なんだ、この曲」と思ったのですが、聞きながら詞を書いていると、すごく高揚してきた。
有田 それが売り上げ200万枚のヒットになりました。予感はあったんですか?
荒木 ええ。渋谷の居酒屋で友達と飲んでいたら、8人くらいの女性が賑やかに飲み食いをしていたんです。そこに有線(放送)から、「時の流れに――」が流れた。すると、「ちょっと待って!」と中心にいた女性が会話を止めて、「この歌、いいのよ」とつぶやいたんです。歌が流れている間、8人全員がまるでお嬢さまのように聞き入っていて。これは「テレサの代表曲になるな」と。
有田 お二人の作品は今も歌い継がれていますからね。「つぐない」は今でもカラオケで年間300万回も歌われているそうです。また、「つぐない」の詞の冒頭に〈窓に西陽があたる部屋は〉とあったから、歌がヒットすると、西陽が当たる部屋を探す女性が増えたという話もあります。愛のために死ねるか
王 荒木さん、三木さんによる作品が立て続けにヒットした’84年から’86年、テレサは3年連続で有線大賞を獲りました。なぜかレコード大賞や歌謡大賞ではなく、いつも有線でしたね。
荒木 あの時代の有線はお客さんが100円硬貨を出し、お店のママに「あの歌を入れて」と頼んで聴いていました。泥臭いけど、テレサには似合っていたと思います。
王 そうか。あの賞はリクエストのデータを基に選ばれていたんですよね。
荒木 三木さんがメロディに乗せた思いをテレサがうまく掴んでくれた。僕はテレサの詞を書くとき、小学校で習うような平易な言葉ばかり選びました。詞がメロディの邪魔にならないように。僕は、死ぬまで原稿用紙で飯が食えると思えたのは、テレサと出会ってからでしたね。
有田 荒木さんや三木さんに出会う前、日本に初めて渡ってきた頃の彼女は、苦労も絶えなかった。
荒木 当時、ご家族は来日に反対されていたと聞きました。
有田 はい。ご両親は最初、「日本に行く必要はない」と反対したんですよね。14歳の時に台湾でデビューしたテレサは、既にアジア各国で成功を収めていましたから。親からすれば、日本で一からやることはないと。交渉役は当時ポリドール・レコードに勤務し、のちにトーラスレコードの社長に就く舟木稔さんでした。
荒木 だけど当時の日本はマーケットが大きかったから、「ゆくゆくは欧米進出」と考えていたテレサにとって、自分を試す場所にちょうどよかった。
有田 そう思います。テレサ本人も「日本に行きたい」と訴えたそうです。日本でデビューしたのは、’74年。21歳のときでした。
王 日本でのデビュー直後は、レコード会社と考え方の行き違いがあり、テレサ
(写真)’91年、紅白歌合戦に3度めの出場
てれさ・てん/’53年、台湾雲林県生まれ。14歳のとき台湾でデビューすると、卓越した歌唱力
で国民的な人気を得る。活躍の場を香港に広げた後、’74年には「今夜かしら明日かしら」で日本
デビュー。’95年の病死までに日本では約260曲を収録。台湾、香港での収録は1000曲を超える