『週刊現代』 (2020/02/11)

日本からの国外退去処分を経て

日本からの国外退去処分を経て
レサ・テンが初来日した1973(昭和48)年は、山口百恵や浅田美代子らがデビューしたアイドル歌手全盛の時代。テレサの最初のシングル『今夜かしら明日かしら』(’74年3月発売)も、売れっ子作曲家の筒美京平氏が手がけた、典型的なアイドル歌謡曲だった。
 出身地・台湾で14歳のときにレコードデビューして7年が経ち、香港でも成功を収めていたテレサだったが、この日本第1作は不発に終わる。香港出身のアグネス・チャンが『ひなげしの花』(’72年/デビュー曲)、『草原の輝き』(’73年)と大ヒットを飛ばし、人々の注目がアグネスに向いていたのも一因だろう。
 そこで第2作は路線を変更。演歌が得意な猪俣公章氏作曲の『空港』(’74年7月)を発売したところ、70万枚超を売り上げた。この年は森進一『襟裳岬』や殿さまキンクス『なみだの操』が売れ、演歌入気も高かった。恋人のもとを去る女性の心情を「別れることが二人のため」と歌う『空港』は演歌ファンにも支持され、テレサは日本でも一躍スターになったのだ。
 著書に『華人歌星かじんかせい伝説 テレサ・テンが見た夢』があるノンフィクション作家・平野久美子氏が解説する。
「日本語が分からない彼女は、歌詞の内容を自分のものにするため努力しました。通訳にじっくり説明してもらい、詞の情感が理解できなければ何度でも質問した。そうやって歌の世界をしっかり掴んでいたので、語尾の微妙なニュアンスまで正確にリズムに乗せ、詞の陰影を歌いこなせた。持ち前の歌のうまさに加えて、繊細な女心や切なさを表現できたからこそ、彼女の歌声は多くの人の心に響いたのです」
 以降、新曲を着実に発表したが、’79(昭和54)年に事件が起こる。偽名のパスポートで入国したとして、国外退去処分が下されたのだ。
 彼女はその頃、台湾を拠点に日本や香港、シンガポールなどを飛び回っていた。

『週刊現代』 (2020/02/11)

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’74(昭和49)年に日本デビュー
テビュー直後に東京で撮影。テレサにとって、日本はショービジネス先進国。そこで学び、自分をさらに磨きたいという思いがあった

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デビュー曲の記者会見で
来日前の数年問は、香港でレコード制作を行っていた。そのため、日本デビュー曲の記者会見は「香港のスター テレサ・テン来日」と銘打たれた

「当時は日本を含め、台湾と国交のない国がいくつもあった。テレサのように各国を頻繁に行き来する台湾人のなかには、母国以外の国のパスポートを持っている人が少なからずいた。国交のない国に入る際はそのパスポートを使い、煩雑な手続きなしに入国できるようにしていたのです。それがテレサの不注意で発覚してしまった」 (平野氏)
 日本のメディアに批判されたこともあって、彼女は翌’80年から再び台湾や香港を中心に活動するようになり、日本から足が遠のく。が、それが功を奏したと言うべきか、アジア各国でヒットを連発、大規模なコンサートを何度も成功させて人気を爆発させた。
 そのなか、テレサのレコードがまだ発売されていなかった中華人民共和国でも、彼女の評判が広まる。また、華僑財閥の御曹司と熱愛関係になり、’81(昭和56)年に婚約を発表。このふたつが、’84(昭和59)年の 『つぐない』での日本カムバックと、『時の流れに身をまかせ』(’86年)の大ヒットにつながっていく。

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’84(昭和59)年に日本カムバック
『つぐない』の発表会で。この曲は「ニューミュージック系演歌」と呼ばれた。テレサは31歳。初来日から11年が経っていた

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’79(昭和54)年の偽名パスポート事件を謝罪
▲国外退去処分の1年半後、来日して会見を開き、謝罪した。問題のパスポートは、香港のファンから買い取ったものだったという

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日本レコード大賞新人賞を受賞

’74(昭和49)年のレコード大賞各賞の受賞者と。大賞に輝いたのはテレサ(後列右から3人目)の隣、『襟裳岬』を歌った森進一 ▼

2021年12月18日Articles,PROFILE

Posted by teresateng