『週刊現代』 (2020/02/11)
「歌う公務員」から「アジアの歌姫」へ
「歌う公務員」から「アジアの歌姫」へ
テレサの中国語の芸名は鄧麗君、本名は鄧麗筠。’53(昭和28)年、台湾西南部にある雲林県の村で生まれた。父親は中国の内戦を戦った軍人で、’49(昭和24)年、中国共産党軍に敗れ、大陸から台湾に逃れてきた。母親も大陸出身者だ。
前出の平野氏が語る。
「一家は台湾で生活を一から立ち上げねばならず、仕事を求めて国内を転々としたそうです。かつてテレサも 『引っ越しばかりで貧しかった』と私に話してくれた。そんな暮らしのなかで京劇や伝統音楽に触れる機会があり、テレサ自身も歌うのが好きになっていきました」
地元で評判になるほど彼女は歌がうまく、10歳のとき、ラジオ局主催のコンクールで優勝。14歳でレコードデビューを果たす。
「抜群の歌唱力と愛くるしい顔立ち、親しみやすい人柄で、テレサはすぐに人気者になります。テレビやレコードの録音で一日に数十曲を歌うことがあり、それでも文句を言わないので、『歌う公務員』と呼ばれました」(平野氏)
18歳になり、香港でレコード制作を開始すると、「天才少女歌手」から 「大人の歌い手」への脱皮を図る。子供っぽい歌い方を矯正し、スローな曲を歌う訓練もした。もともと彼女は声が小さかったが、「それを活かした、優しく囁(ささや)くような、心に染み入る歌唱を身につけた」(平野氏)のだ。結果、香港でも評価を高め、日本のレコード会社から声がかかっ
たのだった。
来日後数年間の活躍、偽名パスポート事件、日本での活動が減る代わりにアジア各国で人気が爆発し、文字通り「アジアの歌姫」になったのは前述した通りだ。
とりわけ中国では「昼間は鄧小平、夜は鄧麗君を聞く」と言われたほど。当時、台湾や香港の流行歌の販売は禁止されていたが、テレサの楽曲は闇カセットテープが大量に出回っていたのだ。
右ページ・上写真キャプション
「軍の恋人」とも呼ばれた
父親が軍人だったこともあり、テレサは台湾軍の慰問活動に熱心に参加。「軍の恋人」とも呼ばれた。いまだ人気は衰えず、2015年には没後20年の記念切手(写真)が発行された。提供/中華郵政
右ページ・中写真キャプション
日本では’86(昭和61)年にレコード大賞金賞を受賞
『時の流れに身をまかせ』で、初のレコード大賞金賞を獲得。’87年には、同曲の中国語ハ―ジョンが香港などで大ヒットした
右ページ・下写真キャプション
育った家は長屋だった
テレサが育ったとされる家。中庭を囲んで数世帯か雑居する「合院」と呼ばれる建物で、日本の長屋のようなもの
これを巧妙に利用したのが日本のレコード会社だ。「中国の最高指導者と並び称されている」との逸話をもとに、テレサが大スターであることをアピール。偽名パスポート事件の汚名をそそぎ、日本カムバックにつなげたのである。
一方、華僑財閥の御曹司との婚約は、一族の家長に「結婚後は歌手活動をやめ、家庭に入る」という条件を突きつけられ、暗礁に乗り上げてしまった。
「二人は深く愛し合っていましたが、『歌うことが私の命』と考えていたテレサは歌を捨てることができず、最後は結婚を断念します。’85(昭和60)年のことです。
日本カムバック後に彼女は『つぐない』(’84年)など大ヒットを連発し、特に『時の流れに身をまかせ』(’86年)は女性の支持が大きかった。テレサ自身の恋の追憶、愛に対する強い思いが歌声に感じられ、それを女性リスナーが敏感に感じとったからでしょう」
(平野氏)
左ページ・上写真キャプション
’85(昭和60年、日本では男女雇用機会均等法が改正され、女性の自律が盛んに語られるようになった。「愛される」ではなく自ら「愛する」女性の姿をロマンティックに歌ったのも、彼女が同性に支持された要因だ
左ページ・下写真キャプション
香港の豪邸を購入
東西の文化が交わり、自由が感じられる香港を、テレサは愛した。写真は香港島南部の街・スタンレーに、約1億円で購入した別荘
テレサ・テン略年譜
テレサ・テン略年譜
- 1953(昭和28)年
台湾西南部の雲林県で生まれる - 1963(昭和38)年
ラジオ局主催の歌唱コンクールで優勝する - 1966(昭和41)年
台湾テレビの専属歌手になる - 1967(昭和42)年
レコードテビュー - 1969(昭和44)年
主演映画が公開される - 1971(昭和46)年
香港でレコード制作を開始。東南アジアツアーを敢行する - 1973(昭和48)年
初来日 - 1974(昭和49)年
日本テビュー。第2作『空港』が大ヒットし、日本レコード大賞新人賞を受賞 - 1979(昭和54)年
日本入国の際の旅券法違反で国外退去処分を受け、渡米 - 1980(昭和55)年
台湾に帰郷。以降、台湾、香港で旺盛に活動。中国大陸でも大ブームが起こる - 1983(昭和58)年
中国で精神汚染一掃キャンペーンの対象に - 1984(昭和59)年
日本での活動を本格的に再開し、『つぐない』が大ヒット - 1985(昭和60)年
『愛人』が大ヒットし、NHK紅白歌合戦に初出場 - 1986(昭和61)年
『時の流れに身をまかせ』が約200万枚を売り上げる - 1987(昭和62)年
『別れの予感』を発表。この頃から音楽活動をセーブするようになる - 1989(平成元)年
5月、香港で行われた天安門民主化支援コンサートに参加。6月に天安門事件が発生し、その後、パリに移住 - 1991(平成3)年
番港で死亡説が流れる - 1994(平成6)年
NHKの番組に出演するために来日。日本での最後のテレビ出演になる - 1995(平成7)年
静養先のチェンマイで、気管支ゼんそくの発作による呼吸困難のため逝去。享年42