「先生に鞭で叩かれた」~『ゼロサン』1991年11月号

『あんな主催者の下では歌うな』といった類の
手紙を送りつけられたこともありました。当時
の私にはそれが何を意味していたのか十分には
理解出来なかったけれども」

 純粋に歌うことが好きだったひとりの少女が、
日には見えない国境線を越えたが故に、否応な
く国際政治の舞台裏を垣間見る破目に陥ってし
まう。私は無意識に彼女の古いレパートリーの
ひとつである『無情荒地有情人』という曲の一
節を脳裏に浮かべていた。
 「’75年に極めて中国的なアレンジを施した、
『小城故事』という作品を発表したのですが、
その曲が香港で大ヒットを記録し、上海に里帰
りする華僑が私のカセット・テープをお土産と
して大陸へ持ち帰って行ったらしいんです」

 中国では今もって部小平を遥かに凌ぐ知名度
を誇り、〝全球十億歌迷熱愛的巨星〟とまで称
された彼女の人気は、この時期を境に怒濤の如
く中国全土へと広まって行った。
 「私の歌が中国で受け入れられたのは何と言っ
てもタイミングが良かったからでしょうね。特
に’76年という年は、毛沢東が亡くなり四人組が
失脚するなど中国にとっては歴史的な転換期に
当たっていました。それ以前の中国には流行歌
と呼べるようなものは江青が作曲したオペラ曲
ぐらいしかなかったわけでしょう。突然、流行
歌が入って来たものだから皆が飛び付いた、と
いうのが本当の所ではないかと私自身は考えて
います」

’83年に鄧小平が推進した精神汚染追放運動で、
テレサの歌う『何日君再来』が槍玉に上がった
という事実は、皮肉にも彼女の大陸での圧倒的
な人気を内外に知らしめる結果ともなった。
「私は歌を通じて、ほんのささやかな幸せを聞
いて下さる方々に分け与えられることが出来れ
ばと望んでいるのです。歌によって少しでも気
持ちが安らげばと。私に出来ることはと言えば
それだけ。中国でのヒットにしたって、彼らの
心の奥底から湧き上がって来た現状を変えたい、
より良い生活を享受したいという強烈な想いが
まず先にあって、私の歌が後から付いて行った
だけに過ぎないんです。私の歌に何かを変えて
しまうほどの力があるとは思わない……」

 テレサの歌声に心酔したのは民主化を熱望す
る中国本土の〝人民〟だけではなかった。故郷
から遠く離れ、帰りたくでも帰れない世界中に
散らばっている華僑たちさえもが母国語で綴ら
れた純粋な流行歌の誕生に対し、惜しみない拍
手を送っていたに違いない。
「アジア全体に移住している華僑の人たちには
何度となく助けて頂きました。彼らは客家ハッカだと
閩南ミンナンといった民族の違いにこだわることなく、
お互いに助け合って生きているんです」

 バンコック、シンガポール、クアラルンプー
ル。何処の都市であれ中華街の路地裏へ、ソッ
と足を踏み入れてみれば良い。そこでは―世た
ちが頑なに耳を傾ける京劇の姦しい音曲と、故
郷の春花秋月に触れる機会に恵まれない若い華
僑たちが想いを託す鄧麗君の歌声とが絶妙に絡
み合い、共存しているに相違ないからだ。
「たったひとつ国を選べと言われれば、私は台
湾を選びます。祖国ですからね。でも両親の故
郷でもある中国には、もっと良い方向へと変わ
って行って欲しいという気持ちを強く持ってい
ますよ。天安門事件が起きるまでは私も社会主
義は中国でなければ実現不可能だろうと、心情
的にはサポートをしていました。たとえ社会主
義体制であったとしても国民の幸福につながる
のであれば構わないのではないかと。それがあ
の事件で目を醒まさせられた。中国共産党は真
から変革を望んでいたわけではなく、ただ人民
を殺戮しただけじゃないかと。許せないですね.
絶対に。今は両親が台湾に逃げて来て良かった
と思います。彼らのお陰で私がいる。もし中国
にそのまま留まっていたとしたら、今の私は存
在しなかったでしょうからね」

「1991 ゼロサン11月号」

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Posted by teresateng