「先生に鞭で叩かれた」~『ゼロサン』1991年11月号
ふたつの祖国の狭間で
「1991 ゼロサン11月号」
彼女は’83年の暮れから翌年初頭にかけて、東
アジア各国で開いた大規模なデビュー15周年記
念公演を最後に、アジアのステージからはプツ
ツリと姿を消してしまった。
「台湾でも基本的には’85年に引退しました。あ
れ以来台湾でテレビに出演したのは2回だけで
すし、取材も殆ど全部断わっている状態ですか
ら。私の場合は幼い時分からアジア各国を廻り
ながら歌い続けて来たでしょう。もうアジアで
やりたいことは取り敢えず、すべてやり尽くし
ちゃったっていう感じなんですよ、今は。これ
で十分だって」
30歳を過ぎたら、
「あまり公衆の面前には姿を現したくなくなっ
た」と照れ笑いを浮かべる彼女に、私は歌手と
してはこれからが最も充実した年齢に差し掛か
るのではないかとすかさず尋ね返した。
「もちろんレコードはこれからも出し続けます
よ。ただコンサートはね。あんまり上手じゃな
いんですよ、私。日本でヤングアイドルし
てデビューした当初も、人前に立つと踊りの振
りに気を取られ過ぎちゃって歌詞をすっかり忘
れてしまったことがあったくらいですから」
決して器用なひとではない。純粋に歌うこと
が好きだったひとりの女性が、歌が国境を越え
てひとり歩きし始めたことによって、何万人も
の聴衆を前に脚線美を披露することさえも求め
られるようになってしまった。
「ただ、日本の芸能界だけは少し事情が違うん
ですよ。デビュー自体が遅かったし最初の5年
ぐらいはあんまり売れなかったですから、もう
少しお仕事を続けてみたいんです。出来ること
ならば東京でコンサートも開いてみたいと考え
ています」
確かに他の東南アジア諸国と比較すれば華僑
の影響力が圧倒的に小さい日本という極東の小
国では、自然発生的にアジア人歌手の手による
楽曲がそのまま大ヒットにつながるといったケ
ースは皆無に等しい。艶歌という日本独自の歌
唱スタイルを踏襲し、尚且つ日本語で歌うとい
った独特の戦略が求められる。歌謡曲ひとつを
取ってみても日本のアジア地域における特殊性
がうっすらと浮かび上がって来るではないか。
更にテレサの場合は日本語の持ち歌に北京語の
訳詞を付け、東アジア全体にヒット曲を還流さ
せるという、いまだかつて存在し得なかった新
しい潮流をも生み出した。
「いつの日にか中国大陸でコンサートを開くこ
とが私の最大の夢なのです。実は天安門事件の
直前にも北京と上海とを含む公演旅行を実際に
計画していました。招待状も沢山受け取ってい
ましたから。でも今は行きたくはないですね。
もし中国の民主化が今後順調に進んで行けば可
能性が拡がって行くとは思いますが、現体制の
ままではやっぱり無理でしょうね」
彼女の大きな両の瞳がうっすらと潤み、語気
に微妙な鋭さが加わった。
「ただ周辺の国々は何らかの形で中国の改革路
線を手助けして行かなければならないとは思っ
ています。中国が変わらなければ結果的には周
りの国々にしたって災難を蒙るわけですから」
テレサの〝祖国〟である台湾にしても、
「人民解放軍が攻め込んで来たら、ひとたまり
もないですからね」と話す。
「台湾で唯一コンサートを開くとしたら国府軍
のためだけにやりたいと思っています。軍隊の
慰問ですね。中台関係の平和的な解決は私自身
も勿論強く望んではいますが、もしも両国間に
紛争が勃発した際には軍隊だけが私たち台湾人
にとっては頼みの綱ですからね。国府軍の兵力
は20万人、中国の人民解放軍は300万人。す
ぐに負けちゃうとは思いますけれども……」
東京・赤坂。冷房の程良く効いたパチンコ屋
の店内から、有線のヒットチャートが途切れな
がらも白く輝く街路一杯にこぼれ出ている。「悲
しみと踊らせて」。大ヒットの兆しを見せ始め
たテレサの新曲が、強烈な日差しに顔をしかめ
ながらも忙しく往き来する会社員の耳元に、つ
かの間の潤いを与えている様子が良く判る。や
がてはこの曲も極めて上質な流行歌として数多
くの人々に愛され続けるに違いない。深夜のカ
ラオケ・スナックでOLの肩にしっかりと腕を
回し蛮声を張り上げている部長さんたちにだけ
ではない。今年分の刈り入れを終え、一服しな
がらようやくのことで手に入れた日本製のカセ
ット・テープ・レコーダーのスイッチに手を伸
ばす中国の農民たちの耳をも楽しませることに
なるのだろう。それが鄧麗君という歌手に歌わ
れる流行歌の宿命でもあるのだから。 □
2ページ目の大きな写真の左上の、テレサ・テンの紹介文は以下の通り。
Teresa Teng
「1991 ゼロサン11月号」
テレサ・テン=鄧麗君(テン・リー・チュン)/1953
年台湾生まれ。13歳で台湾テレビの専属歌手となる。
その後活動の中心を香港に移し、’74年に日本デビ
ューを果たす。’80年代に入ると次第に中国大陸で
の人気が盛り上がり、’83年にそのブームが頂点を
迎えるが、中国当局の精神汚染追放キャンペーンの
対象となってしまう(現在は解禁)。同時に東南ア
ジア、香港、台湾での人気も最高潮となる。日本で
も「つぐない」、「愛人」そして「時の流れに身をま
かせ」と立て続けに大ヒットを飛ばし、’86年には
3年連続日本有線大賞、全日本有線大賞グランプリ
を受賞。天安門事件後からパリ在住。最新シングル
は「悲しみと踊らせて」(トーラス・レコード TA
DL7321)