「先生に鞭で叩かれた」~『ゼロサン』1991年11月号
難民、異邦人、スーパースター
「1991 ゼロサン11月号」
東京・ホテルオークラの壁時計は、既に午後
8時を指していた。静まり返ったロビーで息を
潜めながら商談に勤しむビジネスマンの群を
尻目に、私は約2年振りの来日を果たしたばか
りの彼女が起居しているという階上の一室へと
歩を進める。
「はじめまして」
滑らかな音色を伴って、華奢な右手が私の目
の前へと差し出された。
「パリに移ってから、もう1年8カ月になりま
す。最初はろくに言葉も話せなかったので心細
い思いもしましたけれど、今は大分慣れて来ま
した」
スッと背筋を伸ばし、身じろぎもせずに耳を
傾けているテレサの横顔には〝東南アジアの美
空ひばり〟と言った仰々しい形容が何処かそぐ
わない、まるで新人歌手を思わせるような清冽
な気品が満ち溢れていた
〝何故このテレサの作品がアジアで数千万枚も
売れ続けているのだろうか?〟
羽毛の如く軽やかな彼女の立ち居振る舞いを
目の当たりにして、私の胸中に去来する素朴な
疑問はより一層深まって行かざるを得なかった。
「ある意味では私も難民と立場は同じです。長
い間香港を拠点に活動を続けて来ましたが、天
安門事件以降は’97年に予定されている中国への
香港の返還を、ただ座して待つべきではないと
思い立ち、勉強をするためにフランスへ渡った
のです」
もちろん歌の勉強、ニュー・アルバムの録音
が目的ではあるが、
「パリでは何を話していたって咎められること
はないし、どんな曲目であっても歌うことが許
される。香港の人たちは今、そっとして置いて
ほしいんですよね。もう十二分に問題は抱え込
んでいるわけですから、もし私が香港で何らか
の発言をすれば、彼らに迷惑を掛ける可能性が
全くないとは言い切れないでしょう。だからこ
そ私は、香港を離れたのです」
と呟くと、彼女は膝小僧の上にキチンと揃え
られたか細い指先へと、ゆっくりと視線を落と
して見せた。
〝難民〟、そして異邦人。意味は違えども彼女
は常に異邦人であり続けた。いや、あり続けざ
るを得なかったのかも知れない。
「小学生の頃はいじめられっ子でしたね。先生に
鞭で叩かれたことも何度もありましたし。
元々台湾に住んでいた本省人は、海峡を挟んだ
福建や広東省からやってきた人々には寛容なの
に、北京から移り住んだ国民党員に対しては心
底憎しみを感じていましたから。そんな時期に
大好きな歌を口ずさむと、フッと気が楽になっ
たのを今でもはっきりと覚えています。歌って
いる時だけは、辛い現実から逃避することが出
来たからでしょうね」
台湾出身のテレサの両親はいわゆる外省人、
第2次大戦以降に定住を果たした新参者である。
蒋介石率いる国民党の陸軍中尉であった父親は
河北省・大名府にある鄧台という名の小村に生
まれ育ち、山東省出身の母親とは写真だけの見
合い結婚で結ばれた。
「台湾には楽しかったと言えるほどの思い出は
殆どありません。教育、音楽、ビジネス、色々
な意味であまり勉強する機会を与えては貰えな
かったから。中国語だけですね。台湾で私自身
が身につけたものはとはと言えば」
彼女は6歳の頃から一流のプロ歌手としての
活動を始め、10歳で台湾ラジオが主催した素人
のど自慢大会に優勝。16歳で香港からレコード
・デビューを飾るや否や母親を伴って、シンガ
ポールを皮切りにアジア各国を転々とする旅か
ら旅への生活を経験することになる。
「あの当時は仕事が入りさえすれば、それこそ
アジアの隅々にまで行っては歌っていました。
ベトナムにも’71年と’72年に行きましたよ。シン
ガポールのプロモーターが10人ほどの歌手を集
めて歌謡ショーを組むわけです。提岸というサ
イゴン(現ホーチミン市)近郊にあった華僑系
の村では映画館を借り切って公演をしましたが、
当時はベトナム戦争の真っ最中でしょう。夜間
外出禁止令が出ているにも拘わらず、ファンが
私をバイクの後ろに乗せてホテルまで送ってく
れたこともありました。それでも翌年の’72年に
訪れた時には反対に石を投げつけられちゃった
んですよ。戦局が悪化して、人心が荒んでいた
んでしょうね。南ベトナム解放戦線の若者から、