歌廳 cabaret

 幼い頃から、人前で歌っていたテレサ・テンですが、13・14歳頃からは、歌廳やホテルのレストラン・ナイトクラブなどで歌って、家計を支えていました。

歌廳とは

 テレサ・テンは、のど自慢大会や学校で歌唱のうまさを認められると、地元の歌廳で歌い、収入を得られるようになりました。いわば、プロの第一歩です。


  「歌廳(歌厅)」について分かりやすい説明をしているサイトが、意外なことに見つかりません。Gemini(AI)に尋ねると以下のような回答でした。(2025/10/03)

「歌廳(gē tīng)」とは、台湾や中国で、歌手がステージで歌を披露し、観客が飲食しながらそのパフォーマンスを楽しむことができる施設です。日本のカラオケ店やカラオケバーとは異なり、客自身が歌う場所ではなく、プロの歌を鑑賞するのが主な目的となります。 

「歌廳」の特徴

  • プロの歌手のショー: 多くの「歌廳」では、専属の歌手が舞台で歌を披露します。
  • 歴史: 1960年代にはテレサ・テンのようなスターが、キャリアの初期に「歌廳」で歌っていたことで知られています。
  • エンターテイメント: 音楽を楽しむだけでなく、お酒や食事を一緒に楽しむことができるエンターテイメント施設です。
  • 日本のカラオケバーとの違い:
    • 歌い手: 日本のカラオケバーでは客が歌いますが、「歌廳」ではプロの歌手が歌います。
    • 歴史的背景: 「歌廳」は、かつて台湾や中国で人気のあった娯楽形式でした。 

 関連サイトとして3つリンクがありますが、その内2つは、当サイトの「歌廳」の語を含むページです。従って、私の見解が上の回答に反映されています。
 翻訳ソフトでは「歌廳」は、「カラオケクラブ」「カラオケバー」「ナイトクラブ」「キャバレー」などと、様々な翻訳をされますが、歌廳の客は自分で歌うことはありませんので、「カラオケ・クラブ」という日本語訳は誤解を与えます。当サイトでは、原則的に「キャバレー」という日本語訳を使っていますが、歌廳では客が歌を聴くことが重視され、酒席ではありません。

 中国大陸から台湾に渡った軍人や軍属の郷愁を癒すため、上海の歌謡ホールを模した演出が歌廳には導入されました。長い年月の経過とともに、店から歌手への支払いが変わって、観客が現金を入れた赤い封筒をステージ上の歌手へ直接手渡す「紅包」の習慣が定着していきました。

『迴盪在西門町的歌聲』

 歌廳については、Facebookに次のような記述(子迂的蠹酸齋/2023年12月4日)があります。『迴盪在西門町的歌聲』(=『西門町に響く歌』)という書籍からの内容です。

日本語訳(Google翻訳による/「カラオケバー」は「キャバレー」と書き直してあります。)                                                       

子迂的蠹酸齋(紫玉の余綽寨)
2023年12月4日
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台北西門町の住宅と商業が混在するビル群を通り過ぎると、キャバレーのポスターをよく目にする。これらのポスターは、古くて立派な建物の入り口に貼られていることが多い。そこに映る美しい歌い手たちは確かに「ベテラン」に見えるが、写真のスタイル、ポーズ、そして写真家の編集技術は、どれもが時代を感じさせる。まだら模様の壁紙、時折漂うタバコの匂い、そして薄暗い光は、目に見えないほど高い壁を作り出し、その奥の世界は私が知っている世界とは全く異なる。これらのキャバレーへの好奇心は、決して薄れることはなかった。時が経ち、キャバレーが徐々に閉店していく中でも、私は足を踏み入れる勇気がなかった。近年、偶然の出会いを通して、インターネットでキャバレー文化に関する情報に触れるようになったのだ。メディアの報道やネットセレブのコメディ動画のおかげで、キャバレーへの好奇心がようやく満たされました。

最近、聯合文芸社から『西門町に響く歌』という本が出版されていることを知りました。この本はキャバレーショーの歴史を紐解き、伝説のキャバレースターを特集した歌手の特集記事です。そこで購入して読んでみることにしました。

この本は、伝説のスターやキャバレーショー、紅包店のオーナーに多くのページを割いていますが、台湾におけるキャバレーショーの歴史的発展について、私は特に興味を持っていました。

この本によると、1961年、西門町の成都路と昆明街の交差点にある国賓劇場の2階に「国之賓」という大きなキャバレーがありました。これが台湾における正式なキャバレー営業の始まりであり、台北市政府から初めてキャバレー営業許可が発行されたのです。その後、1967年から1968年にかけて、西門町はキャバレーブームに見舞われ、複数の大型キャバレー店が軒を連ねました。最盛期には、小さな西門町に10軒以上のキャバレーが軒を連ね、それぞれが多彩な歌手を擁していました。

台湾におけるキャバレーの隆盛は、主に台湾に移住した中国本土の兵士たちの娯楽ニーズによるものでした。このことが、上海のカラオケバーのモデルを模倣し、成功するビジネスモデルを生み出そうという発想につながりました。

しかし、キャバレーと紅包店はそれぞれ異なります。キャバレーと歌手の関係は、ボーナスや契約金といった給与体系に近いものでしたが、最終的には給与でした。一方、紅包店は、カラオケバー間の競争が激化する中で出現し、運営上のプレッシャーを歌手に分散させることが可能になりました。それ以降、歌手はカリスマ性で客を惹きつけ、紅包店を主な収入源とすることができるようになりました。

実際、今日の大手ライブストリーミングプラットフォームと同様に、歌手にも専属契約があり、ゲスト出演やゲスト出演の機会がありました。キャバレーは単なるパフォーマンスの場でしたが、参入障壁は今日のライブストリーミングプラットフォームよりもはるかに高かったのです。

歌手の起源は、テレビのタレントショーに遡ることが多いです。かつては芸能界がまだ発展途上で、テレビ局の数も少なかったため、出演者数は機会をはるかに上回り、パフォーマンスステージの数はアーティストの数をはるかに上回っていました。そのため、テレビやラジオで活動している歌手でも、主流メディアから締め出されているにもかかわらず、優れた才能を持つ歌手でも、キャバレーショーに出演していました。

政府が徐々に公共のパフォーマンススペースを開放していくにつれ、1980年代には西洋料理レストランに併設されたパフォーマンススペースでも歌手が出演するようになりました。その後、民間テレビやインターネットの普及に伴い、キャバレーは競争の激化に直面し、徐々に姿を消していきました。

この本には、台湾で牛肉料理店が広く普及していたため、キャバレーがしばしば遊興の場と誤解されていたと具体的に記されています。しかし、初期のキャバレーは非常に格式高い娯楽施設でしたが、時の流れとともに徐々に様々なレッテルを貼られるようになったのかもしれません。

最近、台湾ではレトロブームが巻き起こっており、私もキャバレーに足を踏み入れる勇気が少し湧いてきたのかもしれません。

子迂的蠹酸齋
2023年12月4日
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途經台北市西門町的住商混合大樓,時不時還能見到歌廳的沙龍海報。海報通常被放置在有些年代但富麗堂皇的門口,海報上的美女歌星看著確實有點「資深」,但拍照的風格、姿勢和以及攝影師修圖的方式,種種特徵都顯示出強烈的年代感。斑駁的壁紙,時不時透出的煙味,以及陰暗的光線,在無形中構築一道高牆,內部彷彿是不同於我所認識的世界。我對這些歌廳的疑問從未有所減少,直到隨著時光逝去,歌廳逐個歇業,我依舊沒有踏入的勇氣。直至近幾年才因為些許契機,開始在網路上看到關於歌廳文化的相關歷史,不管是媒體的專題報導,抑或是網紅的搞笑影片,終是一圓我對歌廳的好奇心。

這陣子,我發現聯合文學曾出版《迴盪在西門町的歌聲》,內容就是針對過往歌廳秀的歷史做敘述,同時也由歌星為主題,一次介紹那些歌廳秀中的傳奇明星,於是乎就決定購買來讀讀。

書中雖然絕大多數的篇幅,都是用於敘述那些歌廳秀、紅包場中的傳奇明星或老闆,但我真正好奇的反倒是歌廳秀在台灣的歷史發展。

根據本書所載,在民國五十年,於今天西門町成都路與昆明街口的國賓戲院二樓,曾有個名為「國之賓」的大歌廳,這是台灣正式歌廳的初始,也是台北市政府所發出的第一張歌廳執照。而後在民國五十六、五十七年間,西門町如雨後春筍般興起歌廳狂熱,數家大型歌廳紛紛成立。全盛時期小小西門町竟有十餘家不同的歌廳,也都有著風格各異的歌星。

歌廳在台灣之所以興起,多與播遷來台的外省兵士們尋求娛樂有關,於是就有資本想到將上海歌廳的型式橫向複製到台灣營業,確實打造成功的商業模式。

但歌廳與紅包場終究是有所差異。歌廳與歌星的關係,較近於薪酬制度,或許享有部分分紅和簽約,但終究是薪水。而紅包場則是因為後來歌廳彼此競爭過於激烈後,歌廳將經營壓力分散至歌星身上,從此歌星能靠著自身魅力吸引客人前來聽歌,以收取紅包為主要收入。

其實如同今日的各大直播平台,歌星們也有所謂的專屬約、客串或跑場。歌廳不過是個表演舞台,只是相較今日的環境而言,其門檻遠高於今日的直播平台罷了。

歌星的來歷,則通常與電視台藝人選秀相關。過往娛樂產業較不興盛,電視台數量也少,僧多粥少的情況下,表演舞台遠遠小於藝人數量。因此不管事是會在電視台演唱、廣播電台演唱,或者被排除在主流媒體之外但仍有一定實力的歌星,都會出現在歌廳秀中。

而後隨著政府逐步開放公開表演的空間,至民國七十年時,西餐廳附設表演空間都開始有歌星駐唱。後來隨著開放民營電視台、網路化,歌廳受到的競爭越盛,便逐漸消失在歷史的軌跡中。

書中特別提及,因為台灣民間曾一度流行起牛肉場,歌廳受其牽連,經常被誤認為聲色場所。但最早的歌廳是相當上流的娛樂,只是或許在時代演進下,逐漸被貼上種種標籤。

近些年台灣吹起一股股復古風,興許我也有了敢於踏入歌廳的小小勇氣了吧。

台湾のYahoo!ニュース:《西門老青春:歌廳的美麗與哀愁》04:時代縮影 掲載の「1992年前後西門町歌廳分布圖」。

同じ書籍の内容をまとめた、ブログ記事があります。

日本語訳 (DeepL)                                                      

西門町における歌謡ホールの台頭

1961年、政財界の名士である陳大把、朱良鈞、鄭祖光の三人が、西門町成都路と昆明街の交差点にある国賓劇場の二階に「国之賓」大歌謡ホールを開設した。これが台湾に正式な歌謡ホールが誕生した始まりであり、台北市政府が発行した最初の歌謡ホール営業許可証でもあった。

「国之賓」は広々とした空間に豪華な内装を施し、数千万を投じて高級音響機器や舞台照明を輸入。雰囲気を高め効果を強化した。さらに卓越した技量を持つ楽団の師匠たちや一世を風靡した歌姫たちが、人々の目を引きつける目玉となった。「国之賓」は毎日満席で、西門町の主要なランドマークの一つとなった。「国之賓」が西門町で七年間独占的な地位を築いた後、1967年から1968年にかけて西門町に突然「歌謡ホールブーム」が湧き起こり、数軒の豪華大型歌謡ホールが相次いで開業した。それらの施設は、会場規模、設備、規模、歌手の豪華さにおいて「国之賓」と互角の対抗馬となった:

一、麗声大歌廳(中華路衡陽路交差点、1968年創業)
二、七重天大歌廳(漢中街116号、1969年開業)
三、夜パリ大歌廳(武昌街二段、1969年頃開業)
四、日新大歌廳(武昌街二段、1969年頃開業)
五、鳳凰大歌廳(峨眉街、現・今日世界ビル)

これらの歌廳はいずれも専属歌手を擁し、それぞれが誇る看板スター、店の顔となる存在を有していた。群星会での歌唱後に人気を博した歌手の大半は、西門町の歌廳オーナーたちから高額な報酬で招聘され、出演することとなった。歌謡ホールと歌手の契約では、契約ホール以外での「副業」や「ゲスト出演」(俗に言う「場を転々とする」)が禁止されていたが、テレビ局やラジオ局の出演は例外だった。そのためテレビ視聴者が「群星会」で憧れの歌手の風采を拝見したい場合、自ら歌謡ホールに足を運ぶしか真の姿を見る術はなかった。当時の歌手の存在は、まるで天高く輝く星のように手の届かない存在であり、どれほど憧れ、賞賛し、心惹かれてもただ天を仰いで嘆くしかなかった!今では、お茶代さえ払えば間近でその風采を拝み、魅惑的なお顔を拝見できるのだから、大騒ぎにならないわけがない。だから各歌謡ホールは毎日開店前から人だかりができ、道が塞がれるほど賑わっていた。

いわゆる「エース」歌手とは、ラジオ番組で頻繁に歌声を披露したり、テレビの娯楽番組に常連出演したりする男女歌手を指す。歌唱力や声質が高く評価され、気品ある優雅な魅力と優れた評判・イメージを持ち、広く社会から愛される存在である。

前述の豪華な大型歌謡ホール以外にも、それほど豪華ではなく規模や風格がやや劣る中規模から大型の歌謡ホールも、このブームに乗り勢いづいて台頭し、長く衰えることなく目覚ましい業績を上げてきた。これにより西門町とその周辺地域はさらに賑わいと繁栄を極めている。

DeepL.com(無料版)で翻訳しました。

歌廳在西門町的崛起

民國五十年政商名流陳大把、朱良鈞、鄭祖光三人,在西門町成都路昆明街口的國賓戲院二樓開設「國之賓」大歌廳,這是台灣有正式歌廳的初始,也是台北市政府所發出的第一張歌廳執照。

「國之賓」場地寬敞裝潢華麗,耗資千萬進口高級音響和舞台燈光,增添氣氛加強效果,而技藝精湛的樂隊老師及紅極一時的歌星們更是吸睛亮點。「國之賓」每天高朋滿座,座無虛席,成為西門町的主要地標之一。「國之賓」獨佔鰲頭稱霸西門町七年之後的民國五十六、七年間,西門町突然雨後春筍般興起「歌廳熱」,新開業數家豪華大型歌廳,其場地、設備、規模、歌星均足與「國之賓」分庭抗禮不分軒輊:

一、麗聲大歌廳(中華路衡陽路口,一九六八成立)

二、七重天大歌廳(漢中街116號,開業日月一九六九年)

三、夜巴黎大歌廳(武昌街二段,約一九六九年開業)

四、日新大歌廳(武昌街二段,約一九六九年開業)

五、鳳凰大歌廳(峨眉街今日世界大樓)

這許多歌廳均有自己的專屬歌星,也都有各自傲人的王牌、鎮店之寶。在群星會演唱後走紅的歌星,泰半被西門町歌廳的老闆重金禮聘前來演出。歌廳與歌星簽約,限制歌星只能在簽約的歌廳登台演出,不得再去別家歌廳「兼職」或「客串」演出(俗稱跑場),但電視台與廣播電台的演出不在此限,所以電視機前的觀眾欲觀賞「群星會」中所仰慕心儀歌星的風采,就只能御駕親征這些歌廳方得拜睹廬山真面目。那個年代的歌星就像是高掛在天空的星星般可望不可及,再如何仰慕、欣賞、心儀也只能望天興嘆!現在好了,只消茶水錢便可近距離一窺風采得識迷人的芳顏,那還不造成轟動?所以各家歌廳每天開門營業前,都是萬頭鑽動熙熙攘攘,途為之塞。

所謂「王牌」歌星,泛指經常在廣播電台獻聲歌唱,或經常在電視台的娛樂性節目中露臉,歌藝、歌喉備受推崇肯定並散發高貴優雅的風采魅力、又具有極佳風評形象、而廣受社會大眾喜愛歡迎之男女歌星或藝人。

除了前述幾家豪華大歌廳之外,也有些不是那麼豪華或規模氣派略遜一籌的中大型歌廳,趕上這個風潮趁勢崛起,並且歷久不衰地創造了傲人佳績,使得西門町及周邊地區更為熱鬧繁榮。

迴盪在西門町的歌聲:紅包歌星的故事

テレサ・テンにとっての歌廳

 上の文章を読むと、歌廳が現れたのは1960年代初頭で、その後「歌廳ブーム」が拡大していきました。1980年代までには、お得意さんの客に歌手が収入を求める紅包店へと徐々に形を変えながら、ブームは収束したようです。
 歌廳出現当初は、歌手の数も少なかったので、歌手と歌廳の需給関係では、歌手のいわば売り手市場だったようです。テレビも同様だったようです。歌手を初めとした芸能人は、このころは「卑しい職業」とも見られていたこともその理由の一つでしょう。

 しかし、職業としての歌手が比較的新しいものであったことと、歌廳(やテレビ)がちょうど興隆してきたころだったことが、テレサ・テンにとって彼女の歌唱の実力と相まって、プロ歌手となっていくのにあたって非常に幸運だったのかも知れません。 

テレサ・テンが歌った歌廳

他にもきっとあるでしょうが、当サイト管理人が把握しているのは以上です。

2025年10月4日1960

Posted by diva-teresa