新宿ルイード(1976年~)RUIDO
ルイード第2回以降、そしてルイード以前の銀座メイツ
新宿ルイードでの第2回以降
鄧麗君④(1977年3月19日 新宿 RUIDO)には、1976年7月10日の他にも、同じ会場(ライブハウス)で少なくとも3回(あるいは5~6回以上)、
1976年10月30日
1977年2月22日
1977年3月19日
にミニ・コンサートを行っていたと記述されており、1977年3月19日についてはその具体的内容が文字化されています。
一方で、鄧麗君④(1977年3月19日 新宿 RUIDO)では、数回同会場でのミニ・コンサートに通ったという筆者が、直接1976年7月10日の状況については記述していないものの
(引用3)
ここ、RUIDOで行なわれる彼女の実況ライブは、回を重ねるごと 観客が、多くなっていったように思います。
と書いています。7月10日の初回は満員だった(引用1)が、その後、客数は減り、再び客数が増えたということでしょうか。(引用2)に従えば、第1回を含め、観客数は徐々に増えていったと言うことになります。
銀座メイツでの活動
日本国内での、コンサート(ライブ)はこのルイードでのライブを最初とする記述を見かけることが多いのですが、実はそれ以前、ライブハウス「銀座メイツ」(現在「ケネディ」)で行っていたようです。
篠木雅博氏は次のように述べています。
僕は業界に入りたての頃で、洗足池の近くにあった作曲家、猪俣公章さんの自宅で、晩ご飯をごちそうになりながら曲作りの雑談をさせてもらっていた。
篠木雅博 歌い継ぐ昭和 流行り歌 万華鏡~ZAKZAK by 夕刊フジ
ある日、できたばかりの曲を聞かせてもらったのが三連のリズムの「空港」だった。感想を求められたので「深夜の飛行機の離陸が目に浮かぶようだ」と答えた。歌うのは香港で有名なテレサ・テンだと言われた。
数日後、銀座のライブハウスに彼女が立った後、銀座のすし屋で紹介された。彼女は20歳。初々しくえくぼが愛らしく礼儀正しい。スラっとした容姿で、チャイナ服のスリットからのぞく足がきれいなものだから、恥ずかしながら新米の自分は緊張した。
『空港』の発表は1974年7月1日でしたが、ここに述べられていることはそれ以前のことということですから、1976年7月10日以降の新宿ルイードでの活動以前に「銀座のライブハウス」つまり銀座メイツで歌っていたという裏付けになります。